ファーストレディとして
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「バーバラ・ブッシュ」の記事における「ファーストレディとして」の解説
ジョージが大統領選に当選し、ファーストレディーとなったバーバラは贅沢品に囲まれ高慢なイメージのナンシー・レーガンとは全く異なり、就任式後の晩餐会に29ドルの靴を履いて出たと報じられるなど、親しみやすいキャラクターとして人気を得た。その「親しみやすさ」は決して作られたイメージではなく、率直な物言いと鷹揚な性格で、ホワイトハウスの中でも職員たちを家族のように分け隔てなく接した。また、初めてアフリカ系アメリカ人の秘書官を任命したファーストレディとなった。 ファーストレディとして、セカンドレディ時代の事業を更に格上げし、「バーバラ・ブッシュ・ファミリー・リテラシー財団」を設立し、多くのホームレス、移民を援助した。識字、教育こそが貧困を無くすと、人気番組『オプラ・ウィンフリー・ショー』に出演して、教育の重要性を訴え、ABCラジオにて自身の冠番組Mrs. Bush's Story Timeを持ち、子供たちに語りかけた。1990年に出版したMillie's Book: As Dictated to Barbara Bush(邦題:『ミリー・ブッシュはファースト・ドッグ』)はベストセラーとなり、この本から得た印税は財団に寄付された。 1990年にウェルズリー大学で行った演説は大きな反響を呼んだ。多くの学生は彼女を「つまらない主婦」と見做し、決して歓迎されなかったのだが、演説が終わると本人も驚くような喝采を浴びた。この演説は「20世紀のアメリカの演説ベスト100」において45位に選ばれている。 また、この時期はHIVが社会問題となっていた。レーガン政権がHIVと同性愛者への偏見から殆ど策を講じず、無策が事態を悪化させたことへの反省から、HIV患者への援助に熱心に取り組んだ。HIVに感染した乳児を抱き上げるバーバラの写真は多くの紙面を飾った。これは一回限りのパフォーマンスに終わらず、その後もHIV患者と何回も面会し、病院を訪問し続けた。そして同性愛者の活動家をホワイトハウスに招き、HIVの蔓延と共にどれぐらい同性愛者に対しヘイトクライムが起こっているのかに関心を持ち、このことは憎悪犯罪統計法の成立にもいくらか貢献することとなった。 長女のロビンを白血病で亡くしたことから、白血病患者への支援も熱心に行った。
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ファーストレディとして
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「カーラ・ブルーニ」の記事における「ファーストレディとして」の解説
ニコラ・サルコジ仏大統領との交際・結婚報道はフランスのみならず世界中のマスコミを賑わせたが、政治と無関係の話題提供ぶりには批判も高まり、サルコジ大統領の支持率は一時急落。前後してブルーニのヌード写真がファッション誌に発表されるなどして、本人への批判も高まった。その後は無難にファーストレディ役をこなしているものの、2010年末には仏雑誌VSDによる読者投票で「最もムカツク有名人」(les personnalités qui agacent le plus)に選ばれるなど、国民的な人気は芳しくない。ブルジョワ的なライフスタイルや権力への近さが反感を買っているという。 赤い旅団の元メンバーであるマリーナ・ペトレラ容疑者のイタリアへの送還を『人道的理由及び容疑者の人権』を理由に姉のヴァレリアと共にサルコジ大統領へ力説し、イタリア送還を阻止し、イタリアとフランスに波紋を広げ外交問題になっている。
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「パット・ニクソン」の記事における「ファーストレディとして」の解説
パット・ニクソンがホワイトハウスで過ごした時間は、自ら「volunteerism」と呼んでいる。彼女は個人の手紙に関する返答で時間を過ごした。ジャクリーン・ケネディのように彼女は大統領官邸を工芸品で飾ることに興味を抱いた。最終的に彼女は600を越える絵画と家具をホワイトハウス・コレクションに持ち込んだ。ニクソン夫人は更にオペラからブルーグラスまで様々なアメリカの伝統芸能パフォーマンスをホワイトハウスで開催した。そのゲストの中には1972年にカーペンターズも出演している。 1969年にニクソン一家がホワイトハウスに入った時、特定宗派に限らずゲストを日曜礼拝に招待し始めたが、大統領はその後政教分離を懸念してこの習慣を取りやめた。 パット・ニクソンは大統領の公式訪問への同行を継続した。彼女の旅行は1972年の中華人民共和国への歴史的訪問や、ソ連での首脳会談も含まれた。彼女の最初の公式単独訪問はペルーの地震犠牲者に対する支援物資の供給であった。その後彼女はアフリカや南米を大統領のユニークな個人的代理として訪問した。 1974年8月にニクソンは大統領を辞任する。彼が辞任演説を行っているあいだ、ニクソン夫人は階上で荷造りをしていた。彼らは8月9日にホワイトハウスを去り、カリフォルニア州サン・クレメンテに転居した。
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「ドリー・マディソン」の記事における「ファーストレディとして」の解説
1801年にマディソンがジェファーソン新大統領から国務長官に任命されると、夫妻はワシントンD.C.に移り住んだ。ジェファーソンが男やもめだったため、ドリーがファーストレディの代役を務めることが多かった。料理のメニューに工夫を凝らして主にアメリカ料理を出すようにしたので、彼女のレシピは多くの人々の関心を集めた。人の顔と名前をすぐに覚える能力の持ち主であり、公平かつ陽気に人々を接待し、政治にはあまり口出ししないようにした。 ホワイトハウスのホステスであったドリーの人気の高さはマディソンの1808年の大統領選挙と1812年の大統領選挙における勝利にも一役買ったと言われている。1809年3月4日の夫マディソンの大統領就任式に出席し、正式にファーストレディになった。彼女は夫の就任式に立ち会った最初のファーストレディである。式では人々の心に強く印象付ける大きな羽飾りが付いた紫のベルベットを着ていた。 就任式の後にすぐにホワイトハウスを改装して最高級の料理人を雇い、豪華なパーティーを催し、多くの人々をもてなした。招待客は家柄や財産、格式よりその人のウィット、魅力、能力を重視して選ぶようにした。
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「ベス・トルーマン」の記事における「ファーストレディとして」の解説
エリザベスはホワイトハウスではプライバシーが保たれないことに気がついた。 ホワイトハウスはトルーマンの2期目に再建されたが、一家はブレアハウスで生活し、最小限の公的生活を送った。夫の大統領の任期大半、エリザベスは義務として滞在しなければならなかった時期をのぞいて、ほとんどワシントンで暮らさなかった。 エリザベスは前任者のエレノア・ルーズベルトと比較された。ルーズベルト夫人と異なりエリザベスは、女性雑誌から多くの申し込みの後に1度だけ記者会見を開催した。記者会見では多くの質問が先立って提出されたが、そのほとんどが「ノー・コメント」の回答であった。エリザベスは娘のマーガレットに大統領になってほしいかとの質問には「あり得ない」と答えた。大統領が退任した後何をしたいかとの質問には「インディペンデンスに帰る」と答えた。しかし彼女は1953年の後、ワシントンに住むという考えも抱いていた。
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「ルイーザ・アダムズ」の記事における「ファーストレディとして」の解説
1825年3月4日にアダムズが第6代アメリカ合衆国大統領に就任し、ルイーザ夫人はファーストレディとなった。この時にルイーザはワシントンD.C.にいたが、夫アダムズの大統領就任式に出席しなかった。 ルイーザはホワイトハウスに優雅さをもたらした。洗練された食事と良いワインを用意するように気を付け、時には得意のハープを客の前で演奏したこともあった。一番豪華だったと言われるのが1825年2月25日にアメリカ独立戦争を助けてくれたフランスのジルベール・デュ・モティエ・ド・ラファイエット侯爵を迎えて彼の68歳の誕生日を祝賀したパーティーである。ラファイエット侯爵は「7月4日こそは両大陸にとって自由が誕生した日である」と語った。 もう一つの大きなイベントは1828年2月25日に次男ジョンがホワイトハウスで挙げた結婚式である。これは大統領の息子がホワイトハウスで挙げた最初の結婚式となった。相手はホワイトハウスに同居していた従姉のメアリー・キャサリン・ヘレンだった。この女性は浮気性で、以前には長男のジョージと三男のチャールズにも言い寄ったりもしていた。そのためにアダムズ大統領は結婚に反対していたが、レセプションでは日頃厳しい彼も気さくにダンスに参加したりした。 こうした華やかなイベントも主催し、選挙活動中は「キャンペーンガール」としての役割を受け入れていたルイーザであったが、ファーストレディの地位を嫌い、ホワイトハウスを「監獄」と呼んでいた。前代のエリザベス・モンローと同様に答礼訪問をしないことに決めた。このために政治家夫人と接触する機会が少なくなり、ルイーザが定期的に開いた心を込めた夕食会も欠席が目立った。 ルイーザはファーストレディを務めた4年間に自分に無関心な夫との距離を以前にも増して感じるようになり、重度のうつ病に苦しんだ。読書や著作やスケッチ、養蚕などで気を紛らわすことが多くなった。彼女はホワイトハウスの中で繭を煮て絹糸を紡いでいた。姑のアビゲイル夫人と違い、政治に口出しはしなかった。「全く関わっていないし、一度も相談されませんでした」と書いている。 1828年の大統領選挙が近付いてくると、ルイーザは当初から再選が絶望的であることを認識しながらも、それまでの隠遁生活を止めて再び活発な選挙活動を開始した。彼女の外国生まれを非難する声に対しては「アメリカ人の共和党支持者の商人の娘です」と言い返した。
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ファーストレディとして
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「エリザベス・モンロー」の記事における「ファーストレディとして」の解説
1817年3月4日にモンローが第5代アメリカ合衆国大統領が就任し、エリザベスはファーストレディとなった。エリザベスは就任式の間は終始控えめな役割を演じ、第2期の1821年3月4日の就任式には出席しなかった。前任のドリー・マディソンと対照的に、パーティーを好まず、出来る限りホワイトハウスのプライバシーを守ろうとした。彼女はリューマチ、頭痛、および発熱など生涯を通じて病気がちであり、身体が弱かった。てんかんと見られる症状を起こしていたことも知られている。そのために長女エリザが母の代わりにファーストレディの役割を担うことが多かった。 モンロー一家はヨーロッパの社会慣習の影響を受けていた。プライベートでは家族はフランス語で会話をしており、エリザベスは多くの家具をフランスから購入していた。 エリザベスはワシントンD.C.の伝統を守るつもりもなかった。従来の慣習では大統領夫人はホワイトハウスを表敬訪問した議員夫妻らに対し、必ず数日中に答礼訪問をしなければならないことになっていたが、エリザベスは健康が優れないことを理由に、慣習に反して答礼訪問をしないことに決めた。平日のほとんどを潰してしまうほどの重労働であり、市の人口も年々増えていたので、その負担は増す一方だったが、この決定によって気位が高過ぎると反発された。 次女マリアのホワイトハウスでの結婚式は、ドリー・マディソンによって普及した「バージニアスタイル」ではなく、出席者を身内に限定する「ニューヨークスタイル」に沿って挙行され、招待状を心待ちにしていたワシントン人士の期待は裏切られることになった。 エリザベスが嫁いだ娘を訪ねるという名目で、何ヶ月もホワイトハウスを留守にしたことがあったが、これも悪評の原因となった。ファーストレディが留守の間は女性はホワイトハウスを訪問出来ないというルールがすでに出来ていたので、夫がホワイトハウスに招待されても着飾って同行することが出来なかったからである。男だけのパーティーが開かれたものの、会話下手のモンロー大統領では長い沈黙が生じて盛り上がらず、早々とお開きになることが多かったと言われている。 こうしたことが積み重なり、今度はエリザベスがパーティーを開いても夫人らがボイコットし、壁際に空いた椅子が並ぶという異様な光景が続いた。有名な新聞記者ウィリアム・ウィンストン・シートン(英語版)の夫人は「大統領の応接間は昨夜はみすぼらしい空席の椅子の列ばかりだった。出席した5人の女性のうち3人は外国人だった」と書いている。 彼女の方針も最後の頃になると受け入れられるようになり、このようなボイコットも少なくなっていった。1825年1月1日の最後の新年会に参加した人物は、エリザベスの印象について「威厳のある風格」と表現し、「彼女のドレスは素晴らしい黒のベルベットです。首周りと腕はむき出しで美しい形です。髪は膨らませてあって高く盛り上げられ、白のダチョウの大羽で飾られています。首周りには素敵な真珠のネックレスを着けています。彼女はもう若さは失っているものの、依然として容姿に優れた女性です」と詳しく述べている。
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