日本帰国後の清正
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 08:45 UTC 版)
蔚山城の戦いで加藤清正は明・朝鮮軍からの兵糧攻めを教訓として、1606年に自身が完成させた熊本城の畳の芯にサトイモの茎を用い、城内に食料を確保することを考えるようになったと言われている。石垣造りは「武者返し」と呼ばれ、難攻不落と言われた蔚山倭城をモデルとしたもので、日本にそうある石垣ではない。その他にも、石垣を登ってきた敵に石を落とすことも可能となっている点や、敵を鉄砲で攻撃できるように城壁にそれなりの大きさの穴をあけてある、120ほどの井戸も備えてあるなど熊本城は実戦を十分配備した構造である。1877年2月から始まった西南戦争で明治政府軍の拠点となって西郷軍に攻撃された時も無事だった。 熊本市中央区には「蔚山町(うるさんまち)」という名の市電停留場およびバス停留所がある。加藤清正が陣取った蔚山、あるいはそこから連れてきた人々を住まわせたことにちなむとされる。電停名の韓国語表記では、「蔚山」の部分のみ外来語表記法に依らず朝鮮漢字音で読んだ「울산마치(Ulsanmachi)」が用いられている。
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