ドイツアフリカ軍団長に就任とは? わかりやすく解説

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ドイツアフリカ軍団長に就任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:20 UTC 版)

エルヴィン・ロンメル」の記事における「ドイツアフリカ軍団長に就任」の解説

北アフリカ戦線」も参照 1941年2月ロンメルドイツアフリカ軍団軍団長となり、以降1943年3月まで北アフリカ戦い続けることになる。北アフリカにおける砂漠戦厳しい環境の中で行われた。 まず北アフリカ気候温暖な気候慣れているヨーロッパ人には極めて過酷である。日中酷暑であり、夜は厳寒である(真夏日中には気温60近くになるが、逆に夜は零度近くにまで気温が下がる)。しかも夏だけ長く、他の季節は短い。長期干ばつが続くかと思えば突然に豪雨が来る。脱水症状熱中症赤痢皮膚病などになる者が多く、また砂塵眼病になる者も多い(防護眼鏡付けていても小さ粒子入り込んでくる)。加えて砂は兵器類通信機器類の機能低下故障も招く。砂嵐場合はより地獄である。砂嵐にはジャミング似た効果があり、通信機能がマヒする。 砂漠には遮蔽物ほとんどないので見晴らしがよい。すなわち遠方からでもすぐに敵に発見されるので遠距離戦闘になる事が多く射程距離極めて重要な要素である。したがって歩兵は力を発揮しにくく、戦車砂漠戦の主兵器である。また自然障害物ほとんどないので大量地雷障害物資材が必要となる。また目印になる物が無いために部隊移動の際に方向維持難しく、しばしば推測航法に頼らねばならなかった。 砂漠戦において補給・兵站は非常に重要である。特に水の補給最優先課題であり、オアシス争奪戦によって命運決することもある。広大な砂漠戦車走り回るために燃料補給も重要である。兵站拠点となる場所が少な砂漠戦海上戦似ており、兵站拠点をひとつ取られただけで広範な地域に穴があき、一気後退しなければならなくなる。砂漠戦では補給ままならないので敵からの鹵獲兵器が重要である。1942年6月ロンメルは「我が軍の非常に多く車両英軍からの鹵獲品である。すでに遠くから英軍見分けがつかなくなってしまった」と書いている。ロンメル彼の幕僚北アフリカ戦において英軍のドチェスター装甲車搭乗して指揮を執っていた。もちろん英米側もドイツ軍の兵器鹵獲して使用している。 しかし一番厳しかったのはなんといっても独軍英米軍では物量に差がありすぎるということだった。ドイツ軍その分戦術カバーしなければならなかった。戦術面では当時英米軍は杜撰な面が多く歴戦ドイツ軍の方が明らかに勝っていた。ロンメル迂回戦術一翼包囲戦術駆使して優位に立つ英軍をたびたび壊滅させ、「砂漠の狐」(英:Desert Fox)の異名をとった。とはいえ戦術などではもはやどうにもならないほど物量兵站補給能力に差が付いてしまった時、ロンメル軍団敗北重ねついには北アフリカ放棄することとなる。 しかし北アフリカ戦場従軍した者はそこを「騎士道残った戦場」として記憶している者が多い。戦場となった場所が広大な砂漠であったので巻き込まれ民間人少なかったアフリカにはSSが来なかったので、アインザッツグルッペン付随してきてユダヤ人虐殺を行うといったことも無かった。そしてなんといってもロンメル騎士道重んじる人物だったことが大きかったロンメル指揮の下、この戦域ドイツ軍騎士道精神貫いて誇り高く戦ったロンメル交戦国際条約遵守して捕虜丁重に取り扱った。これを感じ取った英軍もこの戦域では比較国際条約遵守したのである。ただし英軍側は必ずしも常に騎士道精神を貫かなかったようである。ガザラの戦いの際に英軍文書から「ドイツ軍捕虜従順にさせる方法」などという文書発見されており、それを読んだロンメル捕虜対す英軍非人道的取り扱い激怒している。

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ドイツ・アフリカ軍団長に就任

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エルヴィン・ロンメル」の記事における「ドイツ・アフリカ軍団長に就任」の解説

ヒトラーイタリア身勝手さや無能ぶりに呆れながらも、イタリア支援することを決めたヒトラーは「北アフリカ喪失軍事的には耐えられるが、イタリアに強い精神的影響を及ぼす。イギリスイタリア拳銃突きつけ講和結ばせることも、単に空爆することも可能となる。我々に不利なのはこの点である」と述べている。1940年12月13日ヒトラーギリシャイタリア軍救出するための「マリータ作戦」を発令し、ついで1941年1月11日には地中海イタリア軍支援のための「ゾネンブルーメ作戦ひまわり作戦)」を発動した。 これによりハンス・フライヘル(男爵)・フォン・フンク(de:Hans Freiherr von Funck)少将指揮官とする「リビア阻止隊」(まもなく増強受けて「第5軽師団」と改名された)が創設された。まず彼らが北アフリカ派遣されたが、フンク1月25日ヒトラーへの報告書の中で今の戦力では北アフリカ戦況変えられない断言した。またフンクその1週間後にヒトラーの下に参じイタリア軍深刻な域に達しているデタラメぶりを報告したヒトラーは更に1個機甲師団北アフリカ派遣することを決定しその2つの師団統括する軍団指揮官としてロンメル選んだ1941年2月5日ヴィーナー・ノイシュタット自宅にいたロンメルヒトラー召集受けて2月6日ベルリン飛び、「リビア駐屯ドイツ軍部隊司令官任じられた。この部隊2月25日付けで「ドイツ・アフリカ軍団」(Deutsches Afrikakorps、略称:DAK)という戦史名を残す前に改名された。 アフリカ軍団は第5軽師団(のちに第21装甲師団(de)に改組)と第15装甲師団(de)の2個師団から成る。両師団とも戦車の数は150程度にすぎない。あとはイタリア軍から一部部隊指揮任されているというだけだった。後の戦果信じられぬほどアフリカ軍団貧弱な戦力であった。 なおアフリカ軍団名目上イタリア軍北アフリカ派遣軍の指揮下に入ることとなっていたが、ロンメル国防軍最高司令部(OKW)総長ヴィルヘルム・カイテル元帥から「ドイツ軍は(ドイツにとって)無意味な戦闘には投入されないものとする」との命令書を受けていたので自分一定の裁量権があるものと理解していた。

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