ドイツアフリカ軍団長に就任
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「エルヴィン・ロンメル」の記事における「ドイツアフリカ軍団長に就任」の解説
「北アフリカ戦線」も参照 1941年2月にロンメルはドイツアフリカ軍団の軍団長となり、以降1943年3月まで北アフリカで戦い続けることになる。北アフリカにおける砂漠戦は厳しい環境の中で行われた。 まず北アフリカの気候は温暖な気候に慣れているヨーロッパ人には極めて過酷である。日中は酷暑であり、夜は厳寒である(真夏の日中には気温が60度近くになるが、逆に夜は零度近くにまで気温が下がる)。しかも夏だけ長く、他の季節は短い。長期に干ばつが続くかと思えば、突然に豪雨が来る。脱水症状、熱中症、赤痢、皮膚病などになる者が多く、また砂塵で眼病になる者も多い(防護眼鏡を付けていても小さい粒子が入り込んでくる)。加えて砂は兵器類や通信機器類の機能低下や故障も招く。砂嵐の場合はより地獄である。砂嵐にはジャミングに似た効果があり、通信機能がマヒする。 砂漠には遮蔽物がほとんどないので見晴らしがよい。すなわち遠方からでもすぐに敵に発見されるので遠距離の戦闘になる事が多く、射程距離が極めて重要な要素である。したがって歩兵は力を発揮しにくく、戦車が砂漠戦の主兵器である。また自然障害物がほとんどないので大量の地雷と障害物資材が必要となる。また目印になる物が無いために部隊移動の際に方向維持が難しく、しばしば推測航法に頼らねばならなかった。 砂漠戦において補給・兵站は非常に重要である。特に水の補給は最優先課題であり、オアシスの争奪戦によって命運が決することもある。広大な砂漠を戦車が走り回るために燃料の補給も重要である。兵站拠点となる場所が少ない砂漠戦は海上戦と似ており、兵站拠点をひとつ取られただけで広範な地域に穴があき、一気に後退しなければならなくなる。砂漠戦では補給がままならないので敵からの鹵獲兵器が重要である。1942年6月にロンメルは「我が軍の非常に多くの車両が英軍からの鹵獲品である。すでに遠くからは英軍と見分けがつかなくなってしまった」と書いている。ロンメルと彼の幕僚も北アフリカ戦において英軍のドチェスター装甲車に搭乗して指揮を執っていた。もちろん英米側もドイツ軍の兵器を鹵獲して使用している。 しかし一番厳しかったのはなんといっても独軍と英米軍では物量に差がありすぎるということだった。ドイツ軍はその分戦術でカバーしなければならなかった。戦術面では当時の英米軍は杜撰な面が多く、歴戦のドイツ軍の方が明らかに勝っていた。ロンメルは迂回戦術と一翼包囲戦術を駆使して優位に立つ英軍をたびたび壊滅させ、「砂漠の狐」(英:Desert Fox)の異名をとった。とはいえ戦術などではもはやどうにもならないほど物量と兵站補給能力に差が付いてしまった時、ロンメル軍団は敗北を重ね、ついには北アフリカを放棄することとなる。 しかし北アフリカの戦場に従軍した者はそこを「騎士道の残った戦場」として記憶している者が多い。戦場となった場所が広大な砂漠であったので巻き込まれた民間人は少なかった。アフリカにはSSが来なかったので、アインザッツグルッペンが付随してきてユダヤ人虐殺を行うといったことも無かった。そしてなんといってもロンメルが騎士道を重んじる人物だったことが大きかった。ロンメルの指揮の下、この戦域のドイツ軍は騎士道精神を貫いて誇り高く戦った。ロンメルは交戦の国際条約を遵守して捕虜を丁重に取り扱った。これを感じ取った英軍もこの戦域では比較的国際条約を遵守したのである。ただし英軍側は必ずしも常に騎士道精神を貫かなかったようである。ガザラの戦いの際に英軍の文書から「ドイツ軍捕虜を従順にさせる方法」などという文書が発見されており、それを読んだロンメルは捕虜に対する英軍の非人道的取り扱いに激怒している。
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ドイツ・アフリカ軍団長に就任
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ヒトラーはイタリアの身勝手さや無能ぶりに呆れながらも、イタリアを支援することを決めた。ヒトラーは「北アフリカの喪失は軍事的には耐えられるが、イタリアに強い精神的影響を及ぼす。イギリスはイタリアに拳銃を突きつけて講和を結ばせることも、単に空爆することも可能となる。我々に不利なのはこの点である」と述べている。1940年12月13日にヒトラーはギリシャのイタリア軍を救出するための「マリータ作戦」を発令し、ついで1941年1月11日には地中海のイタリア軍支援のための「ゾネンブルーメ作戦(ひまわり作戦)」を発動した。 これによりハンス・フライヘル(男爵)・フォン・フンク(de:Hans Freiherr von Funck)少将を指揮官とする「リビア阻止隊」(まもなく増強を受けて「第5軽師団」と改名された)が創設された。まず彼らが北アフリカに派遣されたが、フンクは1月25日のヒトラーへの報告書の中で今の戦力では北アフリカの戦況は変えられないと断言した。またフンクはその1週間後にヒトラーの下に参じてイタリア軍の深刻な域に達しているデタラメぶりを報告した。ヒトラーは更に1個機甲師団を北アフリカに派遣することを決定し、その2つの師団を統括する軍団の指揮官としてロンメルを選んだ。 1941年2月5日にヴィーナー・ノイシュタットの自宅にいたロンメルはヒトラーの召集を受けて2月6日にベルリンに飛び、「リビア駐屯ドイツ軍部隊」司令官に任じられた。この部隊は2月25日付けで「ドイツ・アフリカ軍団」(Deutsches Afrikakorps、略称:DAK)という戦史に名を残す名前に改名された。 アフリカ軍団は第5軽師団(のちに第21装甲師団(de)に改組)と第15装甲師団(de)の2個師団から成る。両師団とも戦車の数は150台程度にすぎない。あとはイタリア軍から一部の部隊の指揮を任されているというだけだった。後の戦果が信じられぬほどアフリカ軍団は貧弱な戦力であった。 なおアフリカ軍団は名目上イタリア軍北アフリカ派遣軍の指揮下に入ることとなっていたが、ロンメルは国防軍最高司令部(OKW)総長ヴィルヘルム・カイテル元帥から「ドイツ軍は(ドイツにとって)無意味な戦闘には投入されないものとする」との命令書を受けていたので自分に一定の裁量権があるものと理解していた。
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