ドイツ・オーストリアとの対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 03:30 UTC 版)
「エドワード7世 (イギリス王)」の記事における「ドイツ・オーストリアとの対立」の解説
英露接近が成ると、イギリスと植民地争いする国はドイツだけとなった。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、自国が孤立していることに焦り、イギリスとの関係改善を志向した。エドワードも甥との友好に前向きだったので、アルヘシラス会議後の1906年8月に外務政務次官ハーディングを伴ってドイツ・クロンベルク・イム・タウヌスのフリードリヒスホーフ城(ドイツ語版)を訪問し、そこでヴィルヘルムや独外相ハインリヒ・フォン・チルシュキー(ドイツ語版)と会見した。つづいて1907年8月にもハーディングを伴ってドイツ・カッセル・ヴィルヘルムスヘーエ城(ドイツ語版)を訪問し、ヴィルヘルムや独首相ベルンハルト・フォン・ビューローと会見した。また1907年11月にはヴィルヘルムが訪英し、エドワードは王族一同や外相グレイとともにウィンザー城で彼を歓待した。しかしバグダッド鉄道や建艦競争など政治面での英独緊張緩和には至らなかった。 1908年8月にエドワードはハーディングを伴ってオーストリアのバート・イシュルを訪問し、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世やオーストリア外相(ドイツ語版)アロイス・レクサ・フォン・エーレンタールと会見した。これらの会見で英欧両国は英独の建艦競争を英墺関係に影響をさせないこと、バルカン半島情勢に協力してあたることを確認した。 しかし同年9月29日にオーストリア皇帝は1878年のベルリン会議で締結されたベルリン条約に基づきオーストリアの統治下に置かれていたボスニア・ヘルツェゴビナを併合したい旨の希望をエドワード宛てに送ってきた。一か月前の会見でそんな話は全く出なかったからエドワードはこれにショックを受けた。さらに10月5日にはブルガリア公フェルディナンドがオスマン帝国からの独立、自らの称号を公から皇帝(ツァーリ)へ変えること、国名を公国から帝国に変えることを宣言した。 こうしたオーストリアやブルガリアの動きにはセルビア王国やロシアが反発した。ロシアは国際会議を提唱し、フランスがそれに同調した。エドワードやイギリス政府も友好関係に入っていたロシアに同調し、ボスニア・ヘルツェゴビナの併合・ブルガリア独立いずれもベルリン会議署名国全ての同意を得ない限り認められないという見解を示した。しかしドイツとオーストリアは国際会議開催に慎重であり、両国の合意が得られず、会議開催は不可能となった。英仏露VS独墺の構図はいよいよ深まっていった。 1908年10月28日には「デイリー・テレグラフ事件」が発生し、ドイツ皇帝ヴィルヘルムへの批判が内外で高まった。英独緊張を鎮めるため、グレイ外相はエドワードのベルリン訪問を希望した。エドワードはそれを承諾して1909年2月にベルリンを訪問した。この訪問ではバグダッド鉄道や建艦競争など両国の政治的懸案事項はハーディングとビューロウ首相の間で話し合うこととし、エドワードとヴィルヘルムの会談では政治的な話題には触れないこととした。エドワードはこの訪独時、すでに体調が悪化し始めていたが、平静を装って各種行事をこなした。しかしハーディングの方はバグダッド鉄道問題でも海軍問題でもドイツから譲歩を引き出すことはできず、両国の対立を解消させることができなかった。 エドワードの積極的な「王室外交」にも関わらず、ドイツやオーストリアとの政治的対立を緩和させられなかったのは、20世紀初頭という時代がすでに各国の王室・皇室間の友好関係だけでは動かせなくなっているという現実を如実に示すものであった。
※この「ドイツ・オーストリアとの対立」の解説は、「エドワード7世 (イギリス王)」の解説の一部です。
「ドイツ・オーストリアとの対立」を含む「エドワード7世 (イギリス王)」の記事については、「エドワード7世 (イギリス王)」の概要を参照ください。
- ドイツ・オーストリアとの対立のページへのリンク