ドイツ・バルト圏期
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「タルトゥ天文台」の記事における「ドイツ・バルト圏期」の解説
タルトゥ天文台の歴史は、1802年にタルトゥ大学(当時はドルパト帝国大学)が再開した時点まで遡る。1805年に、タルトゥ大学の数学教授で初代天文台長となったヨハン・パフ(ドイツ語版)が自宅に天文観測機器を設置したことが、天文台の始まりとされる。その後、タルトゥ市内の仮設天文台を経て、1808年にトーメの丘の端で恒久的な天文台施設の建設が始まり、1810年に完成した。タルトゥ天文台の設立年については、着工した1808年とするものと、竣工した1810年とするものとがある。 設立からの四半世紀で、タルトゥ天文台は天文学界に大きな影響力を持つ存在となる。その立役者は、フリードリッヒ・フォン・シュトルーベであった。シュトルーベは、タルトゥ大学の学生であった時から天文台に出入りし、大学所有の観測機器を天文台に搬入、設置し、本格的な天体観測を開始した。その後、学位を取得すると、シュトルーベはタルトゥ大学の教授、そして天文台の3代目台長に就任した。当初、ドロンド製の子午儀で観測を行っていたが、位置天文学的な精度に満足していなかったシュトルーベは、1822年にはライヘンバッハ子午環を導入、更に年周視差の測定を目指して、口径9インチのフラウンホーファー屈折望遠鏡を導入した。フラウンホーファーの望遠鏡は、色消しの対物レンズ、錘を使用した自動追尾式赤道儀、温度変化の影響を考慮したレンズ支持方式などの新しい技術を採用した、当時世界最大・最高性能の屈折望遠鏡であった。フラウンホーファー屈折鏡は非常に高価なものであったが、経緯度の高精度での決定をテーマに学位論文を執筆したシュトルーベは、天文学のみならず測地学に長けており、ロシア帝国軍将校に測地学と地図作製法の技術指導をしていたことにより、ロシア皇帝からの潤沢な資金援助があって、購入することができた。シュトルーベは20年以上、タルトゥ天文台で観測を行い、3,000以上の重星を収録したカタログを作成、その集大成といえる「二重星及び多重星の精密測定(Stellarum duplicium et multiplicium mensurae micrometricae per magnum Fraunhoferi tubum annis a 1824 ad 1837 in Specula Dorpatensi institutae…)」の出版や、ベガの年周視差の決定に成功するなど、大きな業績をあげた。しかし、プルコヴォ天文台の完成と共にプルコヴォ天文台長となり、1839年にタルトゥ天文台を去った。 シュトルーベの後、1840年から台長を務めたのは、精度の高い月面地図の作成で名を馳せたヨハン・ハインリッヒ・メドラーで、1864年までその地位にあった。メドラーは、シュトルーベが行っていた観測を引き継ぎ、また、精力的に書籍や論文を執筆し、タルトゥ天文台の活動を世に印象付けた。メドラーは優れた普及者でもあり、著書「万人の天文学(Populäre Astronomie)」は版を重ね、世界中で読まれた。メドラーの元では、トーマス・クラウゼン(英語版)やルートヴィヒ・シュヴァルツ(英語版)が研究を行い、いずれも後に台長となった。一方で、メドラーは観測機器の更新の意識は低く、19世紀後半に時代遅れの観測施設としてタルトゥ天文台が低迷する一因となった。
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