ドイツ再統一とオーデル=ナイセ線の承認
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 01:57 UTC 版)
「旧ドイツ東部領土」の記事における「ドイツ再統一とオーデル=ナイセ線の承認」の解説
前述した様にポツダム協定でオーデル=ナイセ線が国境と定まったものの、西ドイツは「旧ドイツ東部領土」がソ連ないしはポーランドの占領下に置かれているという見解を取っていた。しかし、ベルリンの壁崩壊をきっかけとした東西ドイツ統一の動きの中で、ヘルムート・コールはオーデル=ナイセ線の承認(=「旧ドイツ東部領土」の放棄)へと動いた。長年の政府方針を転換するとも言えるコールの行動は追放者連盟の猛烈な反発を招いたものの、一方でポーランド側がドイツ統一に当たって、金銭による「旧ドイツ東部領土」のドイツへの併合(更には居住している植民者の追放やひいてはポーランドへの「再侵攻」)という懸念を持っていたことから、オーデル=ナイセ線の承認は統一実現の上で不可欠だった。[要出典]
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