ドイツ共産党入党
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「エルンスト・テールマン」の記事における「ドイツ共産党入党」の解説
1920年に独立社民党がコミンテルンに参加するか否かで分裂し、コミンテルン参加派は1920年12月にドイツ共産党 (KPD) と合流、テールマンもこの流れに属した。合同党大会においてテールマンは党中央委員に選出された。戦後もハンブルクで職を転々として暮らしていたテールマンは、ハンブルク地区委員長に就任している。 コミンテルンの暴力革命指令により党は1921年3月にマンスフェルトを中心に武装蜂起を起こしたが、中央政府から派遣されてきた軍に鎮圧されて失敗に終わった(3月闘争(ドイツ語版))。党指導部はこの3月闘争の失敗の弁明のため「学のないテールマン」を1921年6月から7月の第3回コミンテルン大会に代表として送った。この際にウラジーミル・レーニンと初めて会見を持った。 党内においてテールマンはルート・フィッシャーやアルカディ・マズロー(ドイツ語版)らと並ぶ左派の代表的人物であり、党議長ハインリヒ・ブランドラー(ドイツ語版)の「統一戦線戦術」や「労働者政府」(社民党内や労働組合内の反指導部層と共闘してプロレタリア革命へ誘導する戦術)といった右派方針に反対していた。社民党は断固粉砕し、仮借なきプロレタリア革命を遂行すべきとする立場だった。 ブランドラー指導部は「統一戦線戦術」を旨とする右派が多数を占めており、左派は排除されていたが、1923年5月にはブランドラー指導部とコミンテルンの協議の結果として、テールマンやフィッシャーら左派も指導部に入ることになった。
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