ドイツ共産党内部での設立構想
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「東ドイツ文化連盟」の記事における「ドイツ共産党内部での設立構想」の解説
ドイツ共産党(KPD)が、モスクワで「文化政策と国民教育」という節を含んだ行動計画を作成した1944年の秋に、文化連盟という構想が具体化した。表現主義の詩人で共産主義者であるヨハネス・R・ベッヒャーは、当時、亡命先でKPDの中央委員として、文化委員会を主催し、1944年の時点で戦後のドイツに文化系の労働者のための連盟を設立しようと計画していた。この組織は、KPD周辺の人ではなく、あらゆる人に開かれ、知識人や芸術家たちを社会主義的人間像という意味で再教育することになっていた。手本となったのは、イギリスやスウェーデンへの亡命者たちが作った同様の組織であった。 ベッヒャーは、戦争で荒廃したベルリンの町にモスクワから戻ったあと、SMADのもとで「ドイツを民主的に刷新するための文化連盟」設立の許可を申請した。1945年7月25日にベルリンでの許可を受取り、同年7月31日には後に東ドイツの領土となったソ連占領地域全体での許可を受け取った。
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