ドイツ再統一前後の動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/04 04:07 UTC 版)
「ドイツ民主農民党」の記事における「ドイツ再統一前後の動き」の解説
だが東欧革命の波が東ドイツにも押し寄せると、民主農民党は民主化の波のなかで独自の動きを見せるようになった。1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊し、続いて11月13日には社会主義統一党(SED)のホルスト・ジンダーマンが人民議会議長を解任された。その後任にはドイツ自由民主党(LDPD)のマンフレート・ゲルラッハが有力視されていたが、民主農民党は議長候補として党首のギュンター・マロイダを推し、大方の予測を破ってマロイダが新たな人民議会議長に選出された。この時点ですでに東ドイツは民主化の過程に入っており、マロイダは共産主義・社会主義体制からの転換移行期における立法府の長として、同じ11月13日に行政府の長である閣僚評議会議長(首相)に選出されたハンス・モドロウとともに重要な役割を果たした。 1990年3月18日に行われた人民議会初の(そして最後の)自由選挙においては、改めて環境保護を打ち出しエコロジーに重点を置いた農業政党として再出発を図ったが、西ドイツとの速やかな統一を掲げるキリスト教民主同盟が大勝するなか勢力を伸ばせず、また社会主義統一党の後継政党であった民主社会党を除く他の多くの政党と違って西ドイツ側の友党からの支援もなく、エコロジー的な主張も緑の党グループなどとの違いが分かりづらかった面もあり、民主化以前の議席から大幅に減らす9議席の獲得に留まった。 その後、東ドイツで行われた地方選挙で一定の地歩を築く局面もあったが、ドイツ再統一に向けて世論が高揚するなか、結局1990年のうちに保守政党のドイツキリスト教民主同盟に吸収合併された。しかしマロイダはこの合併に参加せず、1994年のドイツの連邦議会選挙に左翼である民主社会党から立候補し当選した。
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