ドイツ出身の悲哀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 04:13 UTC 版)
「ゴットフリート・ライプニッツ」の記事における「ドイツ出身の悲哀」の解説
ライプニッツは三十年戦争の後遺症がまだ残っていたドイツという後進国出身の悲哀を味わわなければならなかった。父はライプツィヒ大学の哲学教授で彼に幼いころから読書を教え、彼も14歳で同大学に入学し、2年後に卒業するが、当時のドイツの大学はイギリスやフランスに比べて立ち遅れていた。従ってライプニッツの理論を正当に理解・評価できる人はあまりいなかった。 ライプニッツが外交顧問、図書館長として仕えたハノーファー選帝侯エルンスト・アウグスト妃ゾフィーと、その娘ゾフィー・シャルロッテ(プロイセン王フリードリヒ1世妃)と、エルンスト・アウグストとゾフィーの孫ゲオルク・アウグスト(後のイギリス王ジョージ2世)の妃のキャロライン(ドイツ語名はカロリーネ・フォン・アンスバッハ)らは、この哲学者を尊敬した。1700年に王妃ゾフィーの招きでベルリンに行き科学アカデミーの創設に参加して、初代総裁に就任している。しかし5年後に王妃ゾフィーが肺炎で死去すると、ベルリンはライプニッツにとって居心地のいい場所ではなくなってしまった。 ハノーファーでも1714年に選帝侯妃ゾフィーが死去し、息子の選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒが同年にイギリス王ジョージ1世となってイギリス国王を兼任すると、キャロラインも皇太子妃となってイギリスに移住した。ジョージ1世はライプニッツを煙たく思っていたのでイギリスに連れて行くことはせず、ハノーファーに残された。ライプニッツは政治的な支援者を失い、周囲の空気は冷たくなった。晩年のライプニッツは侯家の家史編纂というつまらない仕事に携わり、他には自分を理解してくれる外国の学者や友人とひろく文通をかわすだけであった。その文通者は国内外あわせて千人を超えていた。 「これほど能力が高くて、これほど後世に影響を与えなかった人は珍しい」という評が残っている。[要出典]
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