ドイツ医学への転換
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/06 23:46 UTC 版)
明治初年、薩長を中心とする新政府は、蘭方医学からの転換という課題に際し、従来のイギリスとの親密な関係からイギリス医学の導入の方向に傾き、戊辰戦争中の医療活動に大きく貢献したイギリス公使館付き医官ウィリスとの間で1ヵ年医学校および「大病院」で医学教育・医療活動を行う契約を結んだ。当時のイギリス医学は臨床重視で、病院に基礎を置く医学であった。 このままで行くとウィリスはやがて設立されるべき東京大学医学部で中心的な役割を果たし、イギリス医学が日本の医学の主流になるはずであった。しかし新政府の医学取調掛に任命された相良知安・岩佐純は大学に基礎を置き研究活動を重視するドイツ医学の採用を主張、佐藤尚中ら医学校(大学東校)・大病院の他の幹部もポンペ・ボードウィンなどドイツ医学の影響下にあった長崎派の蘭方医学の流れの中に育ったためイギリス医学に格別の親近感を持っておらず、さらに大学南校教師フルベッキも「現在の医学の主流はドイツ医学である」と助言した。これに対し在野の福沢諭吉・慶應義塾医学所はイギリス医学採用論を唱えていたが、大学東校では彼らの反対論を押し切りドイツ医学の採用が決定された。これにともない1871年夏にはドイツ人軍医のミュラー・ホフマンが大学東校の教師として来日した。 大学東校を免職となったウィリスは鹿児島藩に受け入れられ、1869年12月開設された西洋医学所(翌年「鹿児島医学校」と改称)に赴任、ここで高木兼寛らに医学と英語を教授し、経験科学的なイギリス医学の流れを伝えた。
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