ドイツ再統一の意味
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/11 13:27 UTC 版)
「ドレスナー銀行」の記事における「ドイツ再統一の意味」の解説
戦後、銀行の再統合でドレスナー銀行は復活した。西ドイツが復興するより早く、1950年代に戦争の火種くすぶるイスタンブールに代理店を設置した。そして1958年には西ドイツの金融機関で初めて銀行口座のコンピュータシステムに成功した。ベルリンの壁による営業制限が1963年に緩み、外国へ事業展開する条件が整った。1967年にルクセンブルク支店を設け、ドイツ銀行すらも出し抜いた。翌1968年ニューヨークへ証券子会社を出店した(now called ABD Securities Corporation)。ADB主任テオドール・シュミット・ショウバー(Theodor Schmidt-Scheuber)は翌1969年ボストン証券取引所の理事となり、外国人として初めて合衆国内証券取引所の長となった。1974年、ドレスナーはクヴァント家が保有するダイムラー・ベンツ株10%をクウェート投資庁に売却する巧みな仲介をなし手数料を得た。1977年ドイツの秋に頭取ユルゲン・ポント(Jürgen Ponto)が射殺された。後継のハンス(Hans Friderichs)は、経産相時代にフリック一族(Flick family)から賄賂を受け取ったことが公となってレーラー(Wolfgang Röller)に交代した。レーラーのドレスナーはドイツ企業で初めて東京証券取引所に上場した。 1990年1月には東ドイツ最初の支店を創業の地ドレスデンに開いた。1994年、ドイツ銀行とドレスナーは合計でおよそ23%のメタルゲゼルシャフト(Metallgesellschaft)株を保有した。メタルゲゼルシャフトは鉄以外の重要金属をあつかい、カール・モリス・レーブ(Carl Morris Loeb)を働かせていた。1995年にはイギリスのクラインワート・ベンソン(Kleinwort Benson)を買収しドレスナー・クラインワート(Dresdner Kleinwort)に再編成した。2002年以来、ドレスナー銀行は保険大手アリアンツの完全子会社となり大幅な人員削減を行った。2008年8月31日、コメルツ銀行はドレスナー銀行を2009年末までに98億ユーロ(約1兆5600億円)でアリアンツから買収するほか、アリアンツとの資本面、業務面での提携を発表した。2009年5月11日、コメルツ銀行と合併、ドレスナー銀行は消滅した。
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