ドイツ再統一とその後
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「ハンス・モドロウ」の記事における「ドイツ再統一とその後」の解説
東欧革命の影響で東ドイツ国内が不穏になっていた1989年10月4日、警察に命じてドレスデンのデモ隊を逮捕させた(のちに「中央からの指示だった」と釈明)が、5日後の10月9日に反政府派との対話集会を企画し、党内の改革派と目されるようになる。そのためソ連の指導者ミハイル・ゴルバチョフの支持を得ることに成功した。 東ドイツ国民の西側への流出が続く同年11月8日にSED政治局員に選出され、首相(閣僚評議会議長)のヴィリー・シュトフが辞任したことを受けて、翌日未明のベルリンの壁崩壊後の11月13日にその後継となった。 同年12月7日、SED党首の座からエゴン・クレンツを追放した後、モドロウが東ドイツの事実上の指導者となったものの、改名された民主社会党 (SED-PDS) の党首にはならず副党首になった。ベルリンの壁が崩壊し、体制が崩壊寸前の東ドイツを維持するべくモドロウは市民運動家との対話を試み、2月5日には円卓会議の代表者を無任所相として入閣させた。この内閣は自宅の建つ土地の所有権を認めるいわゆる「モドロウ法」を制定している。1990年3月18日に行われた人民議会初の(そして最後の)自由選挙では、キリスト教民主同盟(CDU(DDR))を主軸とする中道右派連合が勝利したため、首相を辞任。 翌年のドイツ再統一に際し、彼は人民議会現職議員として連邦議会に加わった。1993年、連邦裁判所は、1989年5月のドレスデン地方議会選に関連し、3つの選挙違反でモドロウを有罪としたが、後の連邦裁判所の再審でこの判決は取り消された。ドレスデン地裁の懲役9か月と罰金5,000マルクの判決は1995年に確定したが、時効扱いとなった。 1999年、欧州議会の議員に選出された。開発援助委員会に所属し、チェコとの欧州連合加盟交渉では責任者の一人となった。2004年の欧州議会選挙にはPDSのロタール・ビスキー議長の要請を受けて出馬せず、一期で終えた。2006年に雑誌のインタビューで「ベルリンの壁での死者への責任は壁の両側にある」「東ドイツとは社会主義発展の実験で、民主主義にとっても有意義なものだった」と述べて物議をかもした。
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