ドイツ側の状況
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「ニュルンベルクの戦い」の記事における「ドイツ側の状況」の解説
ヴィリー・リーベル(de)市長 大管区指導者及び全国防衛管区指導者カール・ホルツ(de) 戦闘司令官リヒャルト・ヴォルフ(de)大佐 ニュルンベルクでは、以下の部隊が防衛部隊として編成された。 第17SS装甲擲弾兵師団の第38SS装甲擲弾兵連隊の一部隊 第21空軍野戦連隊 各補充部隊 郷土防衛隊 飛行場の空軍地上要員 国家労働奉仕団(RAD) ヒトラーユーゲントの「戦車破壊大隊(Panzervernichtungsbataillone)」 国民突撃隊 東方義勇部隊(de) 銃後からの派遣団 : 16歳から50歳までの女性、国民突撃隊に徴兵されなかった男性からなり、派遣団は主に塹壕掘りや対戦車用のバリケードの建設作業にあたった。しかし、参加者は殆ど集まらず、最早プロパガンダ上の存在となっていた。 召集の結果、11,000~12,000人の14歳以上の男性が集まった。しかし、部隊の装備は貧弱であり、戦車や大砲といった兵器も存在せずライフルとピストル程度の兵器しか装備されなかった。唯一まともな兵器は、市内に設けられた約140基の高射砲であり、その中には連合国が恐れていた8.8cm高射砲も含まれていた。それらは主に防空用の固定砲台として敷設されており、RADの隊員によって運用され、ヒトラーユーゲントと東方義勇部隊の隊員がその補助に務めた。また、ニュルンベルクの操車場で大量の対空砲弾を積んだ列車が発見されたので、弾薬の不足に悩む必要はなかったという。 ニュルンベルクの防衛部隊に編入された一部の部隊は壊滅しており、補充と再編のためにフランケン地方に移されていた部隊(第38SS装甲擲弾兵連隊と第21空軍野戦連隊)であった。大半の兵士は十分な訓練を受けておらず、戦闘用の被服も不足していたが多くの隊員は戦闘に向いた私服と共に隊員用の腕章を身に着けていた。私服のみではゲリラと見なされ、捕虜となっても銃殺される恐れがあったので、腕章の着用は必要不可欠となっていた。飛行場の地上要員、そして、特にヒトラーユーゲントと国民突撃隊の装備が不足していたという。 当時、ヨーゼフ・ゲッベルスは「結局のところ、武器はそれほど重要ではない。戦闘では兵士は別の方法で武器を得るだろう。」という精神論を唱えていたが、こうした見解はヒトラーユーゲントといった「若き力」によって敵の「喉元を噛む」であろうというニュルンベルクの大管区監察官ゲオルグ・ハーバーカーンの見解と一致していた。実際ニュルンベルクの戦いにおいて、ヒトラーユーゲントの隊員は、パンツァーファウストによる攻撃や肉迫によって数メートル距離での対戦車戦闘を敢行していた。戦闘司令官のヴォルフは、各地に木材と路面電車による対戦車用バリケードを建設させたが、これらはアメリカ軍の前には全く無力であった 。ヴォルフはアメリカ軍の部隊がニュルンベルクに隣接するフュルトの町から侵入するものと見ていたが、この予測は外れていた。この誤った判断の下、彼はレドニッツ川に架かる残りの橋の解体を命令していた。 ある学生は、国民突撃隊に所属した50歳の父親をこう表現している。 鎖につながれた(食糧用の)牛と城の二つの堀だけが頼みである…しかし、彼が唯一出来ることは白旗を掲げて城を解放者に引き渡すことのみであった。 守備隊は都市の西側の道路、主にフュルテル通りと主要道路沿いのいくつかの地点に集中していた。1945年4月7日、ニュルンベルクは「後方作戦地域(rückwärtigen Operationsgebiet)」として宣言され、国民突撃隊の召集が行われ、4月13日に完了した。
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