ドイツ側の反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/25 14:15 UTC 版)
「グラフ (潜水艦)」の記事における「ドイツ側の反応」の解説
当初、ドイツ海軍最高司令部がU-570の状況について知り得たことは、艦が敵航空機からの攻撃を受け潜水不能という無電の内容が全てであり、後に英国側の報道で鹵獲されたことをようやく知った。ドイツ側は自軍の通信の安全性を憂慮して、海軍通信部門(Marinenachrichtendienst, MND)の長であるエアハルト・メルテンス(Erhard Maertens)中将にこの件についての報告を命じた。メルテンスは以下のように結論付けた。考えうる最悪のシナリオ - 英国側がU-570の暗号表を確保し、ラームロウが秘密の暗号鍵を白状してしまう場合 - は、部隊に新しいエニグマ暗号機が行き渡る11月までは通信の機密確保は危ういであろう。しかし、メルテンスはこの最悪の想定はありそうもなく、U-570の乗組員はおそらくほぼ全ての機密資料を破棄したであろうと確信していた。もし破棄していなかったとしても艦長の記憶の中にある更なる安全策である秘密の暗号鍵が英国側の暗号解読班に打ち勝つであろうと信じていた。 実際、ブレッチリー・パークの英国側の暗号解読班は、暗号鍵を使用した更なる安全策を見つけ出し、簡単に「厄介値」("nuisance value")と呼んでいた。U-570の乗組員は実際に搭載していたエニグマ暗号機と暗号表を破棄していたが、ドイツ側はそれ以前にU-110に搭載されていた機密資料を英海軍が入手済みであることを知らなかった。これにより英国は1941年6月以来、ドイツ海軍の暗号を解読し続けていた。英国の暗号解読は大きな妨げを受けることなく1942年2月まで続いたが、この時期に新しいドイツ海軍のエニグマ暗号機が導入されると10カ月間も暗号を解読できない期間 - いわゆる「シャーク・ブラックアウト」("Shark Blackout") - が発生した。 数カ月を経て、ドイツ側はいまだにU-570の暗号表の行方を解き明かそうと探っていた。私信の中の普通の文章中に暗号を潜ませる方法で捕虜となっているUボートのエース艦長オットー・クレッチマーにこの件について報告するように命令が出されたが、最高司令部と戦争捕虜の間のこの通信手段が連合国側に発見されていることにドイツ側は気付いていなかった。 ラームロウとは別々に、捕虜となった将校はカンブリアのグリズデール・ホール(Grizedale Hall)にある将校用の捕虜収容所へ連れて行かれた。そこでラームロウ(不在)と先任士官のベルンハルト・ベルント(Berhnard Berndt)は、オットー・クレッチマーを含む他のドイツ人捕虜により招集された「名誉法廷」("Court of Honour")において「臆病による有罪」("guilty of cowardice")を宣告された。10月18/19日の夜にベルントは収容所を脱走したが、直ぐにホーム・ガードの分遣隊に逮捕され、更に逃亡しようとしたところを射殺された。 幾つかの資料によるとベルントは、バローのドックに存在するU-570 - 僅か22マイル (35 km)しか離れていない - の元まで行き、何とかして艦を破壊することにより汚名を返上するという確固たる動機を持って収容所を脱走したとされる。別の資料では、ベルントが反ナチス思想の持ち主や英国側に協力的な人物を罰する残忍な体制を敷いていた上級のドイツ人捕虜の一団から脱走を強要されてこれから逃れるためだけに脱走したのであり、ホーム・ガードが自分をグリズデール・ホールに連れ戻そうとしていることに気付いた時に再度逃走を図り、ホーム・ガードはベルントが警告射撃を無視した後で彼を射殺したとしている。英国側は、それ以上の同種の事件を避けるためにラームロウをドイツ陸軍と空軍の捕虜を収容している収容所へ入れた。
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ドイツ側の反応
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「ヨーロッパ戦勝記念日」の記事における「ドイツ側の反応」の解説
1945年5月8日までに、ドイツの北端及び南端のごく一部を除く大半は連合国軍に占領されていた。占領地ではすでにナチ体制は崩壊し、市民は占領下の生活を受け入れ、あるいはソ連軍などから逃れての逃避行の途上にあった。それゆえ、「5月8日」自体はほとんどのドイツ人にとって急激な変化の日とは受けとめられなかった。 後年、ドイツ連邦共和国はこの日を「第二次大戦終戦の日」("Ende des Zweiten Weltkrieges")と呼称している。ドイツでは、第二次世界大戦で終戦は「Stunde Null(零時)」であると認識される動きが強く、敗北より解放、ひいては再建のはじまりであると認識されている。 しかし、年月の経過に伴って認識は変わり、西ドイツ大統領リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーは、1985年5月8日の終戦(Kriegsende)40周年記念日に『荒れ野の40年』という演説を行い、5月8日をナチ体制からの「解放の日」と呼んだ。2005年の終戦60周年記念日には、ホルスト・ケーラー大統領が連邦議会での演説では初めて、戦闘で戦死したドイツ軍将兵、連合軍の空襲で死亡した一般市民にも言及し、彼らも「ナチズムと戦争の被害者」と述べ、追悼の意を表した。
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