ドイツ併合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 01:44 UTC 版)
チェコスロバキアは多民族国家であり、国内の民族紛争が絶えなかった。これはナチス・ドイツを初めとする多くの国につけいられる原因となった。 1938年にオーストリアを併合したドイツは、同年9月、ドイツ系住民保護を名目にチェコ政府に圧力を掛け、イギリス・フランスが自国の平和を優先したこともあって、ズデーテン地方を割譲させることに成功する(ミュンヘン会談)。これに乗じて隣国のハンガリーとポーランドも隣接区域の割譲を要求し、チェコ側は何れの要求をも呑まざるを得なくなった。 更に1939年3月、ヒトラーはチェコ大統領エミル・ハーハ(Emil Hácha)をベルリンに呼びつけ、プラハ空襲を盾にさらなる国土の割譲を要求、ハーハはこれに屈した。同月ドイツ軍はチェコスロバキア全域に進駐、残存区域も保護領を経て9月にはドイツに併合された。これがチェコスロバキア解体の経緯である。 東ヨーロッパ随一の工業国であったチェコスロバキアは、優秀な機械・兵器メーカーを多く擁してもおり、ドイツにとって重要な地域であった。タトラもドイツ占領軍の管轄下に置かれ、ドイツ軍向けに装甲車やトラックの生産を強いられた。 T57bやT75は国内向けの小型車ということもあり、ドイツ併合後も細々と生産継続された。 大型車のT87については、ドイツの民族系資本メーカーとの兼ね合いもあり、通常なら製造中止になるところであった。しかし、実際にはT87の製造は戦時中も継続された。アウトバーン建設の指揮者であり、ヒトラーの下で軍需大臣(1940年-1942年)も務めたフリッツ・トート博士(Fritz Todt, 1891年 - 1942年)が、T87を「アウトバーンでの高速走行に最適な優秀車」と評価したことがその理由であった。この流線型乗用車は、侵略者であるドイツ人によって真価を見出されるという皮肉な運命に見舞われたのである。 こうして1943年頃までドイツ軍のスタッフカーとして生産されたT87だが、高速走行時の横転事故で死者・負傷者を多発させ、ドイツ軍から「チェコスロバキアの秘密兵器」と恐れられた。ドイツ軍当局者たちは直進性の強いフロントエンジン車に慣れていたため、リアエンジンであるT87の特性を理解せずに高速運転を行ったのが、事故の主因であった。
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