国家民主党と極右
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1967年、自由を求める学生の輪(ドイツ語版)の議長でボルツァーノ自治県解放委員会(ドイツ語版)の活動家だったノルベルト・ブルガー(ドイツ語版)は、オーストリア国家民主党(ドイツ語版)(NDP)を設立した。彼らは独墺合併だけでなく、オーストリアの「過剰外国化」と「生物学的民族潜入」から守るための外国人労働者の「本国送還」を主張し、「脱ナショナリズム化の進行」と「憂うべき犯罪である、ドイツ人の脱ドイツ化と非ドイツ人のドイツ化」を非難していた。 1974年、NDP全国大会は、「反外国人労働者―オーストリア国民請願(ドイツ語版)」運動を組織することを決議したが、しかし実現することはなかった。支持者たちは、「外国人労働者は出てけ!」と書かれたビラを配った。ブルガーが1980年に連邦大統領の選挙に立候補したときのスローガンは、「過剰外国化反対――ドイツ人だけのオーストリアに」だった。 1982年、NDPは新たに、「過剰外国化と民族潜入からオーストリアを守る国民請願」を始めたが、再び失敗した。オーストリア憲法裁判所(ドイツ語版)(VfGH)」は、1988年、NDPに1947年禁止法(ドイツ語版)を適用し、オーストリア国家条約第9条(ナチス系組織の解体)に基づき、政党としての権利能力を剥奪、NDPは公的には解散となった。憲法裁判所は、NDPの綱領が「生物学的・人種差別的な民族概念」に基づいていると確定し、NPDの「大ドイツ主義的プロパガンダ」は、「その確信においてナチスの目的」に合致しているとした。 NDPの国民請願としては、ゲルト・ホンジク(ドイツ語版)の新右翼運動(Aktion Neue Rechte)や「外国人ストップ運動」――「過剰外国化に対する国民運動」やたんに「国民運動」とだけ呼ばれることもある――もある。これらの運動は、1980年に禁止された「バーデンベルク戦友会(Kameradschaft Babenberg)」から生まれたもので、ホンジクと他の代表者たちは、「外国人流入反対」という候補者名簿で、1990年のオーストリア国政選挙(ドイツ語版)に立候補しようとした。「子供の貧困と過剰外国化は、我々のアイデンティティを破壊する手錠である」とか「過剰外国化は民族虐殺だ!」といった主張があったため、選挙管理委員会は公認候補者名簿の受理を拒否した。 「外国人流入反対」が目指しているのは、選挙に異議を唱えることである。1991年憲法裁判所は、この不平を否定した。判決によると、「極めて重要なナチスの綱領と同一視していること、ナチスと似たプロパガンダのボキャブラリーを使って、ナチスに特有の政治的要求をしていること」が確認された。その考えは、「明らかに人種差別的な動機を示す言葉を頻繁に用いている」点に表れている。その具体例として、「過剰外国化政策」という言葉の使用が挙げられている。 ホンジクは、ドイツでは1990年に民衆扇動罪、1992年にホロコースト否認で有罪判決、オーストリアでは1992年にナチス活動参加で有罪判決を受けた。ホンジクの「国民運動」には、ゴットフリート・キュッセル(ドイツ語版)も参加しており、彼は1993年にナチス活動参加で有罪判決となった。彼は、議会外愛国抗議運動(ドイツ語版)を創設していた人物であり、「外国人の浸透に対する民主的闘争方法」や「オーストリア防衛闘争の転換期」というサブタイトルで雑誌『ハルト(Halt)』を出版していた。ここでも、外国人に対する人種差別的アジテーションと、オーストリアのドイツ併合要求、ホロコースト否認などが主要な関心となっていた。彼が非難したのは、政治が「オーストリアの国民」から、「人種的・民族的な純潔性」を維持するという権利を奪っているということだった。「我々の民族への潜入工作」によって、地元のオーストリア人は死の行進状態にある(『ハルト』1991年第53号)。1991年の記事のタイトルは、「汚染の競売――緑の党は、ユダヤ人の輸入を計画中!」だった
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