ドイツ以外の使用国
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スロバキア共和国 LT-38の制式名で使用。チェコスロバキア解体後に成立したスロバキアでは、1941年2月、まず10両を受け取った。これはドイツ軍呼称のA型に当たる初期型で、中でも最初の5両はチェコスロバキア陸軍向けのままの3色迷彩が施されていた。その後1943年初頭にかけてドイツ軍仕様となった27両の新造38(t)を受け取り、さらに1944年6月までに雑多な型の中古車両37両を受け取った(総計74両)。 スロバキア快速師団に配備されたLT-38は損害を被りつつも戦い、残存車両は1944年のスロバキア民衆蜂起にも参加した。 スウェーデン 当初、チェコから直接輸入する予定であったが、スウェーデン向けに生産されたTNH-Svは、S型としてドイツに接収されてしまった。替わってライセンス生産権が譲渡されることになり、スカニア-VABIS社において、Strv m/41の名で量産された。Strv m/41は主砲がボフォース 37mm対戦車砲に代わり、エンジンもスカニア製のものが搭載された。第1次発注分の116両(Strv m/41 SI)は1942年から1943年にかけ軍に引き渡され、第2次発注の122両(Strv m/41 SII)は、18両がSav m/43突撃砲に流用された以外、1944年3月までに生産された。 Strv m/41は1950年代まで使用された後Pbv 301装甲兵員輸送車に改装されて1970年代初頭まで使用された。 ハンガリー王国 T-38軽戦車の名称で使用。緒戦で大損害を受けたハンガリー装甲部隊再編のため、1941年冬から1942年春にかけて、108両が供給された。最初の16両のみがF型で、残りはG型だった。これらは第1装甲師団に配備されて東部戦線に送られたが、そこで大損害を被った。 1943年から45年にかけ、ハンガリー軍に残っていたT-38は22両で、これらは訓練部隊で使われた。 ルーマニア王国 ハンガリー同様T-38の名称で使用。1943年3月、中古のA/B/C型を50両受け取った。乗員はドイツ第23機甲師団で訓練が行われ、同車装備の1個大隊が編成されてクリミア戦区に送られた。その後の戦いで大きな損害を被ったが、残存車両はルーマニアが連合国側に加わった後も、ドイツ軍に対する戦いに使用された。 ブルガリア公国 1943年の再編計画に則り、同年5月、雑多な型式の10両の38(t)戦車をドイツから購入。プラガ戦車の名でブルガリア戦車師団の第3大隊に属する第9中隊に配属された。これらは1944年9月に始まる対独戦に投入された。 チェコスロバキア 本来チェコスロバキア陸軍用に開発され、制式採用された本車だが、配備が始まる前にチェコスロバキアは解体されてしまった。 1945年5月、復活したチェコスロバキアでは、BMM社や国内の修理廠、訓練施設に残されていた38(t)戦車を接収、新たにLT-38/37(37は主砲口径を示す)の名称で戦後しばらく、訓練用に使用した。 ソビエト連邦 特に独ソ戦の前期において、度重なる損耗によりソ連陸軍は慢性的に戦車不足であり、ドイツからの鹵獲戦車が整備され部隊編成も行われた。38(t)も相当数が用いられたが、前線で使われるドイツ側車輌の数が減ってくるとチェコ製の専用砲弾の鹵獲が困難となり、一部は自国製の45mm戦車砲に載せ替えている。
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ドイツ以外の使用国
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「III号突撃砲」の記事における「ドイツ以外の使用国」の解説
ブルガリア王国 1943年2月から12月に掛けて計55輌のIII号突撃砲が供与され、ブルガリア軍では“マイバッハ T-III(ブルガリア語: Майбах“ Т-III)”と呼称されて B60501-B50555 までの登録番号が与えられ、2個突撃砲大隊が編成された。 枢軸陣営のテコ入れのため許可された輸出だったが、実際にはこれらの突撃砲は1944年9月、ブルガリアが連合国側に転じた後にドイツ軍への追撃に使用された。供与されたのは主にG型だが、1945年のハンガリー戦線でF型 (48口径75mm砲搭載型) を使用している写真も残されている。これはソ連軍から鹵獲品を供与されたものと思われる。 ブルガリア軍のIII号突撃砲は戦後もソビエトから装甲戦闘車輌が供給されて置き換えられる1950年代半ばまで装備され、その後は他のドイツ製戦車と共にブルガリアの南方国境(トルコ国境)に固定砲台(トーチカ)として配置された。これらの車輌は冷戦終結後はそのまま忘れ去られていたが、2000年代に入って発見されて回収され、2007年よりは修復の上博物館に展示されている。 イタリア王国 1943年5月、5輌の突撃砲が供与された。 フィンランド 1943年6月、7月、8月に10輌ずつ、1944年に29輌の計59輌のIII号突撃砲G型が供与された。これらは Ps.531-1 に始まる登録番号が与えられた (Ps.531がIII号突撃砲の車種固有番号) 。特に1943年中に到着した第一期分のうち22輌は、装甲師団(フィンランド語版、ロシア語版、英語版)所属の突撃砲大隊(フィンランド語版)の主力として44年6月のソ連軍夏季大攻勢を迎え撃つために出撃。6月14日、クーテルセルカ村近辺で初陣を迎えた。 続く数ヶ月の戦闘でこれらのIII号突撃砲は多大な出血を強いられつつも、ソ連軍車輌を多数撃破した。 フィンランド軍のIII号突撃砲は“シュトゥルミ”の愛称で呼ばれ、装填手ハッチ前の機銃シールド開口部を拡張しソ連からの鹵獲品であるデグチャレフ機銃に換装、シュルツェンと呼ばれる、ドイツ戦車の側面や砲塔等に取り付けられた増加装甲を除去し装備品の配置を変えるなど、幾つかの独自改装が行われている。戦後も1960年代に入るまで現役にあり、保存状態は様々ながらフィンランド国内を中心に30輌以上が現存し、海外の博物館にドイツ軍の塗装で展示している車両も元はフィンランド軍のものという場合もある。 スペイン 1943年10月、10輌が供与された。 ルーマニア王国 1943年11月以降、ルーマニアが連合軍側に転じる1944年8月までに、計105輌(108輌とも)のIII号突撃砲が供与された。全ての車輌は1942年12月より生産されているG型の可能性が高いものの明確な記録は無い。これらの車輌は、ルーマニア語で突撃砲を示す略称のTAs (Tun de Asalt) と呼ばれた。第1装甲師団の装備車両はモルドヴァ方面等での戦闘に投入された。その後ソ連によって多数の装備を接収されてしまったものの、残存車両はルーマニア国内の解放戦、チェコスロバキア、オーストリア方面でのドイツ軍との戦いに使われた。 ソビエト連邦 特に大戦中盤以降、ソ連軍は多数のドイツ軍車両を鹵獲した。ドイツ軍車両によって編成された部隊もあり、III号突撃砲もある程度の数が元の持ち主への戦闘に投入された。 シリア 戦後、チェコスロバキアが接収していたIII号突撃砲を購入、一部は1967年の第三次中東戦争(六日間戦争)でも使用された。
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