ドイツ侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/19 05:12 UTC 版)
ロシアとドイツ間の休戦(英語版)は1918年2月18日に失効し、11日戦争が暫くしてドイツにより開始された。ドイツはスウェーデンが中立を保つか連合国に参加するか分からなかったので、ここにはオーランドへの侵攻が含まれた。ドイツは北極海への接続やキロフ鉄道(英語版)やボリシェヴィキの首都サンクトペテルブルクに近い国の存在からフィンランドに関心があった。侵攻を正当化するために、ドイツはフィンランドの連合国からの軍事援助の要請を行った。ドイツのオーランド侵攻を要請する白軍側の上院議員の伝言は、2月22日にベルリンに届いた。ドイツの意図は、オーランドに部隊を集め西の沿岸都市ラウマのフィンランド本土に上陸させることであった。ボトニア湾(英語版)の氷が厚過ぎたので、上陸は最終的に4月上旬にバルチック海師団(英語版)によりフィンランド南部のハンコで行われた。 2月28日、フゴ・モイラー(英語版)将軍率いる戦艦ヴェストファーレンとラインラントの海軍部隊がグダニスクからオーランドに移動した。戦艦はアウグスト・シェンク・ツ・シュヴァインベルク(英語版)少佐の指揮下のグロスヘルツォグリヒ・メクレンブルギッシェス・イェーガー第14大隊を運んでいた。輸送船団は厚い氷で減速したが、最終的にアーランヅ・デタヒェメントは3月5日にエケロに到着した。翌日、スウェーデンはドイツと合意を形成せざるを得なかった。合意によると、スウェーデンとドイツは、今ではオーランド諸島を共同支配することになった。スウェーデンは首都のマリエハムとヨマラやゲタ(英語版)、フィンストロム(英語版)の村々を保持することになった。両国はエケロ港を使用することが許された。フィンランドの軍事担当知事の地位が創設され、白軍側上院の代表としてヒャルマル・フォン・ボンスドルフ(英語版)海軍将校が充てられた。 ドイツはリエパーヤに運ばれる1000-1200名のソ連兵を捕虜にした。ソ連軍のウクライナ兵やポーランド兵、ラトビア兵、エストニア兵250名がスウェーデンの収容所に収監された。この兵は後にドイツに委ねられ、北部ドイツのザスニッツ(英語版)に移管された。マリエハムでは、ドイツはロシアの戦艦とフィンランドの蒸気船SSバルチック(英語版)数隻を鹵獲した。 3月10日、フィンランド赤軍は南東フィンランドの赤軍の首都トゥルクに対する潜在的な脅威についてドイツとの交渉を提案した。ドイツはトゥルクに捕えられている捕虜を明け渡すならとオーランドで赤軍代表と会うことに合意した。1918年にロシアはフィンランドを通じて6万5000人の負傷兵と効力のないドイツ人捕虜を交換した。社会主義哲学者ゲオルク・ボルト(英語版)とトゥルクの民兵代表ウィリアム・ルントベルク(英語版)などの赤軍代表団は、260名の捕虜と共に馬にひかせたそりで氷を渡った。3月15日、ボルトとルントベルクは、ドイツとの会合を行った。しかし赤軍はドイツは白軍から招待されているのでその意図を話し合うわけにはいかないと言われた。その際ボルトとルントベルクは、本国に護送された。 3月後半、ドイツは来るべきバルト海師団のハンコ上陸の左翼を守る為にトゥルク群島(英語版)で作戦を開始した。作戦はフートカル(英語版)島やコルポ(英語版)島、ナグ(英語版)島、パルガス(英語版)島を経由してオーランドからトゥルクに到るものであった。フートカルは3月25日にフィンランド白軍に奪取されコルポは3月28日に奪われたが、赤軍は4月4日のナグの戦い(英語版)でドイツ軍を押し留めた。その際ドイツは群島海から撤退し、ハンコからヘルシンキへの進軍に焦点を当てた。
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