北部ドイツとは? わかりやすく解説

北部ドイツ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 23:02 UTC 版)

モンゴルの神聖ローマ帝国侵攻」の記事における「北部ドイツ」の解説

3月10日には、テューリンゲン方伯ハインリヒ・ラスペがブラバント公アンリ2世宛てて国境越えてポーランド入ってきたモンゴル人動き詳細に報告している。1241年3月18日フミェルニクの戦い敗戦後ポーランド大公ボレスワフ5世モラヴィア逃れた1241年4月9日レグニツァの戦いヘンリク2世チュートン騎士団勝利すると、モンゴル軍ドイツ東部マイセンルサティア入りエルベ川まで進出した。このモンゴル軍ドイツ進出は『Annales sancti Pantaleonis』に言及されている。 4軍勢整えていたボヘミア王ヴァーツラフ1世ドイツ退きテューリンゲンザクセン援軍合流したヴァーツラフ1世モンゴル軍との直接戦闘避けたものの、プラハなどの主要都市要塞化命じている。トレントバルトロメオ英語版)からブリクセンのエギノ司教宛てた書簡によると、モンゴル軍は「ボヘミアザクセン国境攻撃した」とある。この頃フランステンプル騎士団長がフランス王宛てた手紙には、「ボヘミアハンガリー軍隊敗北した場合、これらタルタル人(=モンゴル軍)はフランスまで立ち向かう者がいないと見なすだろう」と記されていた。 モンゴルの脅威対抗するため、ドイツ教会指導者たちは1241年4月いくつかの会議開きモンゴル対す十字軍呼びかけドイツボヘミア防衛のために断食聖体行列を行うことを指示した。『Sächsische Weltchronik』と『Annales breves Wormatienses』によると、4月22日にメルセブルクで王子会議開かれ兵力調達活動調整が行われたという。参加人員不明な点が多いが、ザクセン公アルブレヒト1世マイセン司教コンラート4世5月7日までに軍隊編成しケーニヒシュタイン城でヴァーツラフ1世合流した4月下旬には、当時ドイツ摂政代行していたマインツ大司教ジークフリート主宰により、ヘルフォルト(あるいはエアフルト)でも集会開かれたが、軍隊編成には至らなかった。 モンゴル軍西進続けずに東に引き返しボヘミアには入らなかった。ドイツ諸侯書簡モンゴル軍進行知らせたヴァーツラフ1世によると、モンゴル軍ボヘミア国境から1日40マイル(64km)のペース移動していたという。モンゴル軍モラヴィア門(英語版)で南に向き変えズデーテン山地カルパティア山脈の間を通りオパヴァ付近モラヴィア入った

※この「北部ドイツ」の解説は、「モンゴルの神聖ローマ帝国侵攻」の解説の一部です。
「北部ドイツ」を含む「モンゴルの神聖ローマ帝国侵攻」の記事については、「モンゴルの神聖ローマ帝国侵攻」の概要を参照ください。

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