北部シャイアン族の脱出
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「モンタナ州の歴史」の記事における「北部シャイアン族の脱出」の解説
リトルビッグホーンの戦いに続いて、アメリカ陸軍のシャイアン族を捕まえようとする行動が激しくなった。1877年には972名のシャイアン族がオクラホマのインディアン準州に護送された。政府は北部シャイアン族と南部シャイアン族を一つの部族に再結合させようと図った。しかしそこの状態が悲惨だった。北部シャイアン族はそこの気候に慣れて居らず、直ぐにマラリアを患うようになった。さらに、配給食料が不十分で質も悪かった。1878年、主立った2人の酋長リトルウルフとモーニングスター(ダルナイフ)が、シャイアン族が北へ帰れるようシャイアン族の釈放を要求した。 同じ年、353名のシャイアン族がインディアン準州を離れて北に戻った。この集団はリトルウルフとモーニングスター2人の酋長が率いた。陸軍と他の市民志願兵が、シャイアン族が北に向かうに連れて、熱心に追跡した。総計で13,000名の兵士と志願兵が、シャイアン族の北への旅の全行程で追跡に派遣されたと推計されている。 シャイアン族はネブラスカ州に入ると2つに分かれた。1つの集団はリトルウルフが率い、もう1つはモーニングスターが率いた。リトルウルフとその集団はモンタナに戻った。モーニングスターとその集団は拘束されてネブラスカ州ロビンソン砦に護送された。モーニングスターとその集団は隔離された。オクラホマに戻るよう命令されたが拒絶した。砦の状態は1878年の終わりに掛けて緊張したものになり、間もなくシャイアン族は宿舎に監禁され、食料や水、さらに暖をとる術も無かった。1879年1月モーニングスターとその集団がロビンソン砦を破って脱出した。その多くは砦から逃げているときに銃で撃たれて倒れ、その他の者は続く数日の間に砦の近くで発見され降伏するよう命令されたが、逃亡者の大半は収容所に戻るよりも殺された方が良いと考えて戦うことを選んだ。モーニングスターを含みほんの50名ほどが脱出に成功したと推計されている。逃亡者の中の数人は後にカンザス州で犯された殺人の罪で裁判に掛けられた。生き残った者は1894年に送還された。
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