北部ナショナリズム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/29 04:13 UTC 版)
「北部鉄道 (フランス)」の記事における「北部ナショナリズム」の解説
北部会社はクリミア戦争の間、レール飢饉に対応して幾つもの供給業者を支援し競争させ、運賃引き下げに成功した。 レール飢饉に対応するとき、北部会社は利用する資材を全て国内に発注していた。供給側産業資本の政治的影響力は大きかった(Comité des forges)。カルテルのヴァンデル(Wendel)がドイツへ通じていたくらいである。 クリミア戦争の間に英仏からトルコへ流出した資本は回収が容易ならざるものであったが、一方ドイツはメリノウールから鉄鋼へ産業構造を変えてゆくだけの経済力をつけており、そこへロンドン議定書をめぐり英仏と睨みあった。 かくして普仏戦争の前後は、路線不足を理由として小鉄道会社が乱立するという奇妙な現象がおこった。不毛な競争が終息するのは、イギリスがスエズ運河会社を買収してからである。ベルリン会議の前後にフレシネ計画が鉄道建設へ介入したが、オスマン債務管理局の成立後数年間も国家は鉄道へ介入した。 鉄道ナショナリズムがヨーロッパに起こる間、北部会社の経営陣は世代交代し、高級官僚・参事院議員・エンジニアの重役が登場した。国有化を企てる政治と、それを見越したエンジニアの経費節減策が北部会社を動かした。 北部会社をふくめたフランス六大私鉄は、1895年から公共土木事業局の技術的監視に付された。自由競争においたはずの資材供給事業はカルテルを形成するようになり、あまつさえ1900年頃からは輸入資材も関税引き上げにより価格を上昇させて、1910年のストライキを契機に全国鉄道労組が成立した。 この1910年、北部鉄道は運賃を下げなくなり、値上げをするようになった。北部会社は鉄道を民主化しようとする政治圧力をうけ、1912年現在で、2-10株所有の小株主が全株主の21.4%を占めるようになり、取締役も従来の200家族(Deux cents familles)の利益代表者に加え、ルーベやリールの商工会議所会頭を例とする北部地方の利益代表が席を占めるようになった。経営陣は依然としてエンジニア率が高く、たとえば国立土木学校やエコール・サントラルなどの出身者による学閥支配がみられた。
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