北部イタリア防衛戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 02:57 UTC 版)
「イタリア戦線 (第二次世界大戦)」の記事における「北部イタリア防衛戦」の解説
1945年1月、連合軍は攻撃を再開しゴシック線を突破したが、ドイツ軍はイタリア北部に「ジンギス・カン線」「ポー線」「ヴェネツィア線」「アルビーノ線」という4重の防衛線を敷き直し抵抗を続けた。ただ、既に背後のフランスプロヴァンス地方は陥落しており、抵抗は限定的なものであった。ポー川沿いのポー線まで後退すると、連合軍のミラノ・トリノ方面への突破を許し、連合軍はフランス南部へ進撃した。同時に自由フランス軍もアルプス山脈を超えてヴァッレ・ダオスタ州のアオスタへと侵攻し、東部国境付近ではチトー率いるユーゴスラビアのパルチザンがかく乱工作を展開した。 連合軍の進撃と、各地におけるパルチザンの蜂起によりイタリア社会共和国は事実上瓦解。ムッソリーニはドイツ軍の保護の下でイタリアからの脱出を図ったが、4月28日に愛人のクラーラ・ペタッチと共にパルチザンに捕らえられ、即刻処刑されてその遺体が民衆の前にさらされた。ヒトラー自殺のわずか二日前であった。 詳細は「ベニート・ムッソリーニの死」を参照 アルプス山脈まで追い詰められていたドイツ・イタリア方面軍司令官フィーティングホフは4月29日連合軍に休戦を申し込み、5月2日に降伏、これでイタリアの戦いが終結した。
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