北部の防御戦闘
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詳細は「尚州の戦い (1950年)(英語版)」、「永同の戦い(英語版)」、および「黄澗の戦い(英語版)」を参照 在日米海軍辻堂演習場で上陸訓練を行った第1騎兵師団(ゲイ少将)は、7月15日、横須賀を出航した。水陸両用戦群の第90任務部隊(TF-90、ドイル少将(英語版))により7月18日に浦項(ポハン)に到着。同日夜半までに約1万名の兵員、約2,000両の車両、約2,800トンの資材が揚陸された。 第1騎兵師団は大田の防御戦闘への展開を意図し上陸したが、到着する前に大田は陥落した。そのため、永同(ヨンドン)方面を、第25歩兵師団(キーン少将)は尚州(サンジュ)正面を、韓国軍は咸昌(ハムチャン)−安東(アンドン)−盈徳(ヨンドク)を防御することになった。 永同の第1騎兵師団は戦力が揃わず、避難民に紛れて襲撃してくるゲリラへの対策に苦慮し、また北朝鮮軍に包囲されかかったために、7月29日に金泉に後退した。尚州正面の第25歩兵師団は、第27連隊(英語版)(マイケレス中佐)が4日間の効果的な遅滞戦闘で北朝鮮第2師団に大きな損害を与えた。 韓国軍は、首都師団(金錫源准将)と第2師団が第1軍団(金弘壹少将)を構成して洛東江北岸の安東地区の防御を行った。北朝鮮軍は第2軍団の第12師団が安東を強襲したが、韓国第1軍団を撃破できずにいた。しかし韓国軍は8月に安東を撤退して洛東江防御線の陣地に移動した。
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