北部の戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 08:53 UTC 版)
日本軍主力の尚武集団は、方面軍司令部のあるバギオを中心に北部山地で防衛戦を展開した。沿岸部での戦闘から後退した戦車第2師団・第23師団・独混第58旅団のほか、第10師団・第19師団・第103師団・第105師団(振武集団から抽出)・独混第61旅団などを有し、総兵力は約15万人であった。このうち第103師団は北岸のアパリと北東部のツゲガラオ、独混第61旅団は台湾との間のバブヤン諸島に配置されたほか、第19師団は北部山中でゲリラ掃討戦を実施中、1個連隊が北西岸のビガン〜ラオアグに展開し、残りの諸部隊が北上するアメリカ軍を迎撃することになった。尚武集団は、穀倉地帯であるカガヤン渓谷をバギオと並んで重視していたため、南部のサンホセからサンタフェ経由カガヤン渓谷へ続く5号国道のバレテ峠が焦点となった。 2月下旬、アメリカ軍第1軍団は山岳地帯へ進入した。バギオに対してはアメリカ軍第33師団が国道11号などから北進し、日本軍の第23師団と独混第58旅団と激突した。キャンプ3地点で日本軍に阻止され、国道11号からの突破に失敗したアメリカ軍は、西海岸からバギオへ続くいくつかの道から迂回攻撃を試みた。これも日本軍に次々と阻止されたが、最終的に新手の第37師団がナギリアンを通る国道9号からの迂回突破に成功し、4月には北西からバギオに迫った。4月16日には、山下大将は、ホセ・ラウレル大統領らを日本本土へ脱出させた。日本軍はイリサン付近で戦車による特攻作戦など最後の抵抗を試みたが突破され、4月26日にバギオは陥落した。第14方面軍司令部はカガヤン渓谷へ転進した。 一方、カガヤン渓谷方面では、アメリカ軍第25師団が国道5号伝いに進み、3月上旬にバレテ峠で第10師団と戦闘状態に入っていた。また、その西方ではアメリカ軍第32師団が、国道277号線が国道5号へ合流するサンタフェ手前のサラクサク峠で、戦車第2師団(歩兵部隊に再編)と戦闘状態に入った。日本軍は、南部から転進してきた第105師団のほか兵站部隊までもバレテ峠・サラクサク峠前線へ投入した。両軍は山岳地帯で一進一退の激戦を繰り広げた。アメリカ軍は5月中旬にようやくサンタフェを占領したが、それまでに第25師団は戦死685人と戦傷2090人、第32師団は戦死825人と戦傷2160人を受け、さらに第32師団だけで6000人の戦病者が生じる大損害を受けた。他方、日本軍も膨大な人的損害を受け、重火器や機関銃の大半を喪失した。5月下旬の戦車第2師団の保有重火器は、戦車12両と火砲7門のみであった。6月1日に、日本軍残存部隊は退却に移った。 ルソン島北端のアパリにも6月23日に連合軍が空挺降下し、カガヤン渓谷防衛のため南進中の日本軍第103師団を撃破した。 南北から挟撃を受けた尚武集団は山中へと追い詰められていった。バギオ方面から撤退した第23師団などと、バレテ方面から撤退した第10師団などは、合流して複郭陣地で最後の抵抗を試みていたが、すでに実働兵力は約20%に低下していた。
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北部の戦闘
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第24歩兵師団に続き、4月22日には第31歩兵師団がイラナ湾に上陸していた。そして、第124・第155歩兵連隊を北上させ、ダバオ方面と並行して島の中央部へと侵攻した。ミンダナオ島中央部から北岸にかけては、日本側は第30師団が担当していた。第30師団は、迎撃部隊として歩兵第74連隊の2個大隊と工兵第30連隊などを南下させ、そのうち歩兵第74連隊第1大隊は、4月27日夜にカバカン付近でアメリカ軍第124歩兵連隊及び砲兵1個大隊と激しい遭遇戦を行った。日本軍が橋などを徹底的に破壊したため、アメリカ軍は重火器を迅速に前進させることができず、各地で歩兵同士の近接戦闘が発生した。特にマラマグ周辺では、5月7日に日本軍歩兵第74連隊第3大隊が森林を生かした待ち伏せ攻撃をかけて、112名を失いながらも、アメリカ軍にも戦死60名、負傷120名の損害を与えた。その後も5月15日まで攻防が続き、アメリカ軍第124歩兵連隊だけで69人が戦死し、177人が負傷する損害を受けた。 5月10日には北岸のカガヤンにも、アメリカ軍第40歩兵師団所属の第108歩兵連隊が上陸した。所在の捜索第30連隊などが応戦したが、17日には退却に追い込まれた。そして、23日以降、捜索第30連隊は通信が途絶してしまった。 南北からの挟撃を受けた日本軍第30師団主力は、6月2日に東部のアグサン方面への転進を決断し、持久戦を図った。8月1日にアグサン川流域のワロエに到達したが、移動途中で多数の餓死者・病死者を生じた。しかも、ワロエ付近には、6月24日にアグサン川河口に上陸南下していた第155歩兵連隊の1個大隊が居り、ここでも日本軍は攻撃を受けることとなった。第30師団はワロエからさらに南東に進んだジョンソンで終戦を迎えた。第30師団全体での損害は終戦までに戦死2500人、病死2100人、不明5600人に達した。生存者は約3000人であった。
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