北部の前線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/09 15:15 UTC 版)
戦争の最初の1ヶ月間、サウスカロライナは北部にいるカトーバ族のようなインディアンの支援を期待していた。しかし北部からはカトーバ族やチェロキー族に入って行った交易業者が殺されたという知らせが入った。カトーバ族とチェロキー族は南部のインディアンほど早くに交易業者を攻撃した訳ではなかった。両部族はどのような態度をとるかで割れていた。しかし幾つかの出来事や噂によって北部での敵対心が大きくなった。バージニアの交易業者の中にはサウスカロライナでカトーバ族が戦争を始めるよう唆したとして後に告発される者がいた。カトーバ族がサウスカロライナの交易業者を殺すと決めたとき、バージニアの交易業者には危害を加えなかったことは注目すべきことである。 1715年5月までにカトーバ族はサウスカロライナに戦士の部隊を派遣した。約400名のカトーバ族戦士が70名のチェロキー族と結託して、サウスカロライナの北部を荒らし回った。6月、これに対抗して、トマス・バーカー大尉の指揮する約90名の騎兵隊が北部に向かった。カトーバ=チェロキー連合軍は前もってこの部隊の接近を知り、待ち伏せをして全部隊を蹴散らしてしまった。他のカトーバ=チェロキー連合部隊がベンジャミン・シェンキンのプランテーションにあった急拵えの砦を襲い、約20名を殺害した。この後では、サウスカロライナはチャールズタウンの直ぐ北、富裕なグース・クリーク地域の前には何の防衛体制も無い状態になった。 しかし、北部のカトーバ=チェロキー連合部隊がチャールズタウンそのものを攻撃する前に、チェロキー族の大部分が自分達の集落に起こった新しく重要な展開の知らせに隊を離れてしまった。残ったカトーバ族は、ジョージ・チキンの下に急遽集められた民兵隊と直面することになった。1715年6月13日、チキンの民兵隊はカトーバ族1部隊を急襲し、さらにポンヅの戦いとして知られるカトーバ族主力部隊との決戦を行った。その結果は大勝利だった。カトーバ族はゲリラ的な戦い方ならば得意であったが、会戦のような戦い方には慣れていなかった。カトーバ族は集落に戻った後で状況を分析し、停戦を決めた。7月15日までに、カトーバ族外交使節がバージニアに到着しイギリスと停戦するだけでなく、サウスカロライナ民兵隊に協力する用意があることを伝えた。
※この「北部の前線」の解説は、「ヤマシー戦争」の解説の一部です。
「北部の前線」を含む「ヤマシー戦争」の記事については、「ヤマシー戦争」の概要を参照ください。
- 北部の前線のページへのリンク