北部と南部からの動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/14 09:02 UTC 版)
「血を流すカンザス」の記事における「北部と南部からの動き」の解説
カンザス準州に最初に来た組織された移民は、奴隷州、特に隣接するミズーリ州からの市民だった。彼等はカンザス準州に奴隷州拡大のために来ていた。これら移民によってレブンワースとアチソンに奴隷制度擁護派の開拓地が設立された。 これとほぼ同時に、北部の反奴隷制度組織、中でもニューイングランド移民援助会社が、カンザスに数千人の開拓者を移動させ、そこを自由州にするための資金を集めていた。これらの組織は、トピカ、マンハッタン、ローレンスなど準州内に自由州開拓地を設立するために貢献した。奴隷制度廃止運動家の説教師ヘンリー・ウォード・ビーチャー(1852年に出版された『アンクル・トムの小屋』の著者ハリエット・ビーチャー・ストウ夫人の弟)は、同士の開拓者をシャープス銃で武装させる資金を集めており、これは「ビーチャーの聖書(英語版)」と呼ばれる精度の高いライフル銃の部隊になった。1855年夏までに約1,200人のニューイングランドのヤンキーが新準州に向かっており、武装して戦う用意ができていた。南部では、北部人3万人がカンザスに下ってきているという噂が広まり、1854年11月、大半はミズーリ州から「ボーダー・ラフィアンズ」と呼ばれた武装した奴隷制度擁護派の男達数千人が、州境を越えて準州内に入り、準州からアメリカ合衆国下院に送る代議院1名の選出を支配しようとした。登録有権者による投票は半数に満たず、ある場所では600人以上の投票者のうち合法投票者の数は20人に過ぎなかった。奴隷制度擁護派がこの選挙で勝利した。当時のカンザス準州には約1,500人の登録有権者がおり、その全てが実際に投票したわけではないのに、投票総数は6,000票以上になった。さらに重要なことは、ボーダー・ラフィアンズが、最初の準州議会議員の選挙が行われた1855年3月30日にも同じことを繰り返し、奴隷制度擁護派の勝利に終わらせたことだった。 奴隷制度擁護派で固まった準州議会は1855年7月2日にポーニーで招集されたが、一週間後にはミズーリ州境のショーニーミッションに移され、そこでカンザス準州で奴隷制度を合法化する法を成立させ始めた。1855年8月、自由土地派の一集団が結集し、準州議会で成立した奴隷制度擁護の法を拒絶する決議を行った。この集会ではトピカ憲法を起草し、影の政府を作った。フランクリン・ピアース大統領が1856年1月24日にアメリカ合衆国議会に宛てたメッセージでは、トピカの政府が正当な指導層に対する「革命」であると宣言していた。
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