北部での戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 07:29 UTC 版)
1876年4月の出兵時には、先鋒部隊を率いる張曜にクムル(ハミ)で糧食を集めさせていた。左宗棠の指揮する軍として劉錦棠の湘軍25営、張曜軍14営、徐占彪の蜀軍5営があり、これに東トルキスタンの各拠点の清軍を併せることで、歩兵・騎兵・砲兵合わせて150営、総数8万人となった。左宗棠は粛州(現在の酒泉)にいて、劉錦棠と金順に二手に分かれるように命じた。劉錦棠は北路を行き、金順は南路を行き、クムルで合流することとなった。劉錦棠軍が先にクムルに入り、ウルムチ近郊のジムサルを占領した。 ヤクブ・ベクは清軍の進攻を聞き、馬人得・馬明・白彦虎らをウルムチなど東トルキスタンの要地に配備した。主力の2万人はトゥルファンとトクスンにあり、ヤクブ・ベクはトクスンで督戦に当たった。 8月上旬、劉錦棠軍と金順軍はウルムチの北の要地の米泉を包囲した。17日、大砲で城壁を破壊した後、城内に入り、数日の激戦の後に制圧した。そしてそのまま勝ちに乗じてウルムチを占拠した。ヤクブ・ベク軍の白彦虎はトクスンに逃れた。金順はそのまま西進したが、サンジ・シャヒリとフトビとマナス北城の守備兵は戦わずして退却した。金順はマナス南城を攻めたが落とすことができなかったため、劉錦棠とイリ将軍栄全の援軍が到着した。その結果、11月6日に陥落させ、東路と天山北路は清朝の支配下に入った。
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