北部での明一派の暴動(1647年-1649年)
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「明清交替」の記事における「北部での明一派の暴動(1647年-1649年)」の解説
国・勢力指導者状況・目的清 高弟、ドルゴン、ボロ、呉三桂等 反乱を鎮圧。勝利 反乱軍 張氏、楊四海、李化鯨、姜瓖、張五桂等 清に対して反乱。敗北 山東省鄒平市近郊の主要な暴動は、1647年3月に起こった。山東省は明の崩壊前から山賊行為に苦しめられており、山賊は銃や大砲も装備した大規模な軍に成長して、指導者が王を自称した。明の官吏や紳士階級で組織された民兵は協同して山賊に対抗しつつ、清政権を歓迎した。1647年、三河県の張氏という女が明の懿安張皇后を自称し、天啓帝の太子を自称した西淀の楊四海と手を結び、王礼、張天保らとともに天津で蜂起した。さらに山東省、河北省、河南省の森林地帯では、明一派が1000人ずつ、20個旅団が集結しようとしていた。この部隊は西洋式大砲を装備した「楡園部隊」として知られた。司令官の李化鯨は天正帝を自称し、明の王族の遠縁であると主張して、曹州や定陶県、成武県、東明県、蘭考県、封丘県を包囲し奪取した。明の元将軍である高弟は清に帰順して、優秀な多民族部隊を率いて11月18日までに反乱を鎮圧した。 1649年1月、山西省大同府の知事姜瓖(中国語版)は、ドルゴンが権限を制限しようとしているかもしれないと脅威を感じ、明に転向して反乱を起こした。ドルゴンは反乱鎮圧のために自ら指揮して進軍した。陝西省楡林府の司令官である劉登楼と、陝西省延安府の最高司令官である王永強も反乱を起こした。年末までに反乱はボロと呉三桂の指揮する清軍に敗れ、明一派の要する汾州は虐殺にさらされた。同時期、明の王族と関係があると主張する朱森滏は、1万の部隊を擁する地元のお尋ね者の趙栄貴の後援を得て四川省近くの陝西省階州で秦王子を自称したが、呉三桂の部隊に鎮圧された。混乱の中で多くの山賊集団が奇襲を拡大した。張五桂という山西省のお尋ね者は、明の階級と文書を与えて手勢を集めて決起した。張五桂は1649年に五台県を攻撃したが撃退され、1655年2月に殺されるまで山西省を略奪し続けた。
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