北部と西部の戦線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 00:33 UTC 版)
「アメリカ独立戦争」の記事における「北部と西部の戦線」の解説
詳細は「西部戦線 (アメリカ独立戦争)」および「北部戦線 (アメリカ独立戦争のサラトガ以降)」を参照 アパラチア山脈の西とカナダ国境辺りではアメリカ独立戦争がインディアン戦争と化していた。先住民族の大半がイギリス側に付いた。イロコイ連邦と同じようにチェロキー族やショーニー族は部族によって態度を変えたものもいた。 イギリス軍は同盟した先住民族に武器と弾薬を与え、ニューヨーク、ケンタッキーおよびペンシルベニアなどの開拓者の集落を襲うことを奨励した。そうして1778年に起こった「ワイオミング渓谷の虐殺」や「チェリー渓谷の虐殺」に刺激されたワシントンは、1779年の夏にサリバン将軍に兵を与えてニューヨーク西部に遠征させた。サリバンは大きな戦闘もないままに機械的に先住民族の村を破壊し食糧を焼いたので、先住民族はカナダやナイアガラフォールズ地域に逃亡し再び戻ってくることは無かった。 オハイオやイリノイでは、バージニアの開拓者ジョージ・ロジャース・クラークが1778年にカスカスキアとビンセンズのイギリス軍基地を奪い、この地域の先住民族に対するイギリス軍の影響力を殺ごうとした。デトロイトを本拠にしていたイギリス軍の指揮官ヘンリー・ハミルトンがビンセンズの砦を奪い返した後で、1779年2月にクラークはハミルトンを急襲し砦とハミルトンを捕獲した(イリノイ方面作戦)。 1782年に、「グナデンハッテンの虐殺」が起こり、ペンシルベニアの民兵が中立であった先住民族約100名を殺した。1782年8月に、独立戦争では最後の会戦となったブルーリックスの戦いで約200名のケンタッキー民兵隊が敗れた。
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