北部と四川省における併合(1644年-1647年)
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「張献忠」および「李自成」も参照 国・勢力指導者状況・目的清 アジゲ、ドド、ホーゲ、呉三桂 順や大西政権を攻撃。勝利 順 李自成 西安を拠点として清に抵抗。敗北 大西政権 張献忠 四川省で清に抵抗。敗北 皇天清浄善友、善友会 山西省で清に抵抗。敗北 ドルゴンは1644年6月に北京に入城して間もなく、呉三桂を派遣して李自成を追撃した。呉三桂は何度も順軍の後衛と交戦するが、李自成は山西省に向かって故関を横断した。呉は北京に戻り、李自成はかつて順の建国を宣言した西安に拠点を置いて権力を再構築した。李自成は、1644年の夏と秋に河北省と山東省で清の支配に対して反乱を起こし、ドルゴンは10月に陝西省の要塞から軍を送った。アジゲやドド(中国語版)(多鐸)、石廷柱(英語版)に率いられた清軍は、1645年2月に李自成を西安から追い出し、山西省と陝西省で順軍に連勝した。同年9月、李自成は数省を通って退却する途中で死亡した。村民に追い詰められて自害した説や、村民に倒された説などがある。李自成は、李厳を謀叛の疑いで殺害したのちは統制を失っていたといわれる。 1644年、張献忠は大西国の王を名乗って大順と改元し、大西政権(中国語版)と呼ばれた。1646年初めにドルゴンは大西政権へ2つの遠征隊を送り、同年10月にはホーゲの指揮下で第二派が四川省に到達した。清軍の接近を聞いた張献忠は部隊を4つに分けて、何かあれば独立して行動するように命じて陝西省に逃げた。さらに逃げる前に首都成都の人々を虐殺するようにも命じた。張献忠は1647年2月1日に四川省中央部の西充県近くで清軍と戦い、殺された。ホーゲは成都を奪取したが、予期しなかった荒地であることに気付いた。兵隊は田園地帯で食料を発見できず、抵抗する者を殺しながらこの地域を略奪し、食糧の欠乏が激しかったので人肉さえ口にした。 1645年、山西省で「皇天清浄善友」や「善友会」を自称する宗教的秘密結社が清に反乱を起こした。『清実録(中国語版)』によれば同年3月、山西朔州の蒋家峪に200人ほどの男女が集まって善友を称した。利民堡参将の王守志がこの機を見て掠奪を試み、かえって激化させたため、後に王守志は死刑になった。善友会の会衆は武術を修練した農民たちであった。
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