2つの遠征隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:32 UTC 版)
ナイアガラ砦の一帯を確保したイギリス軍は2つの遠征隊を西部に出発させた。最初の遠征隊はジョン・ブラドストリート大佐によって指揮され船でエリー湖を渡り、デトロイトを補強するためのものであった。ブラドストリートはデトロイトの周りのインディアンを服従させその後南のオハイオ領土に進む予定だった。2つ目の遠征隊はブーケット大佐により指揮されピット砦を出て西に向かいオハイオ郡に第2の前線を作ることが意図された。 ブラドストリートは1764年8月に約1,200名の兵士とウィリアム・ジョンソンによって徴兵された同盟インディアンの大代表団と共にシュロッサー砦を出発した。ブラドストリートは、敵のインディアンを力で屈服させるには戦力が足りないと感じたので、8月12日にエリー湖の強風によってプレスク島での停泊を余儀なくされた時、グヤスタらオハイオ・インディアン部族の代表と和解の交渉を始めることに決めた。ブラドストリートは、単なる休戦以上の和平条約を結ぶことと、まだ出発していなかったブーケットの遠征隊を止めさせることに合意したことで、越権行為となってしまった。ゲイジ、ジョンソンおよびブーケットは、ブラドストリートがやってしまった事を聞いて激怒した。ゲイジは、ブラドストリートが騙されてオハイオ領土に対する攻撃任務を放棄したと信じ込み、条約を認めなかった。ゲイジが正しかったのかもしれない。オハイオ・インディアン部族は、9月に行われたブラドストリートとの2回目の会合で約束した捕虜を返して寄越さなかったし、ショーニーのある部族は戦争を継続するためにフランス人の助力者を雇おうとしさえした。 ブラドストリートは、彼の承認されていない外交が上官の怒りを買っていることに気付かないまま、西方への移動を続けた。8月26日にはデトロイト砦に到着し、そこで新たな条約の交渉を行った。ブラドストリートは、交渉の席にいなかったポンティアックの信用を落すために、オタワ族が会議の席で送った平和の帯を切り刻んだ。歴史家のリチャード・ホワイトによれば、「そのような行為はヨーロッパの大使が提案された条約に小便を引っ掛ける行為にほぼ等しく、集まったインディアン達を驚愕させ機嫌を損ねさせることになった。」ブラドストリートは、インディアン達が彼との交渉の結果、イギリスの権威を認めたとも主張したが、ジョンソンはインディアンに対する説明が足りず、さらに協議が必要になると信じた。ブラドストリートはその地域のイギリス軍砦を補強し再占領することに成功したが、彼の外交はまだ議論の余地があり決定されたものではないことが分かってきた。 ブーケット大佐は、民兵を集めるためにペンシルベニアで遅れをとり、10月3日に1,150名を連れてやっとピット砦を出発した。ブーケットはオハイオ郡のマスキンガム川まで行軍し、多くのインディアン部落まで目と鼻の先まで進んだ。ナイアガラ砦とデトロイト砦で和平交渉が進んでいたので、オハイオ・インディアン部族は孤立しており、一部例外を除いて和平の準備ができていた。10月17日に始まった協議では、オハイオ・インディアン部族はフレンチ・インディアン戦争の時から帰還していなかった者も含めてすべての捕虜を帰すよう、ブーケットが要求した。グヤスタら他の交渉役は渋々ながら200名以上の捕虜を帰したが、その多くはインディアンの家族と縁戚になっていた。捕虜のすべてがそこにいたわけではなかったので、インディアン達は他の捕虜が帰還することの保証として人質を差し出さねばならなかった。オハイオ・インディアン部族はウィリアム・ジョンソンとの正式な交渉の席に着くことを約束し、1765年7月に決着することになった。
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