イギリスの反応、1764年-1766年
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「ポンティアック戦争」の記事における「イギリスの反応、1764年-1766年」の解説
インディアンは1764年の春と夏もさらに激しさを増して辺境の入植地を襲った。この年最も被害の激しかったのは100名以上の入植者が殺されたバージニアであった。5月26日、メリーランドのカンバーランド砦近くの農場で働いていた15名の入植者が殺された。6月14日、ペンシルベニアのルードン砦の近くで約13名の入植者が殺され家を焼かれた。最も重大な襲撃は7月26日に起こった。現在のペンシルベニア州フランクリン郡で4名のデラウェア族戦士が学校を襲い教師1名と子供10名を殺し頭皮を剥いだ。このような事件に直面したペンシルベニア議会はペン知事の承認を得て、フレンチ・インディアン戦争の時に行われた頭皮報奨を再導入した。この制度は女性を含み10歳以上のインディアンを殺した場合に賞金を払うというものだった。 アマーストはこの暴動に対する責任を貿易委員会に問われ、1763年8月にロンドンに呼び戻され、トマス・ゲイジ将軍が後を継いだ。1764年、ゲイジは2つの遠征隊を西部に発し、反乱を鎮圧し、捕虜となっているイギリス人を救出し、戦争に責任のあるインディアンを逮捕しようとした。歴史家フレッド・アンダーソンによれば、ゲイジの作戦は元々アマーストが立てたものであり、戦争を終わらせるというよりもインディアンを罰することに重点がおかれたので、戦争をさらに1年以上長引かせることになった。ゲイジの作戦がアマーストのものと異なっていた点は、ウィリアム・ジョンソンを使ってナイアガラで和平交渉を進ませたことであり、「斧を埋める」用意のあったインディアン達にそのようにさせる機会を与えた。
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