イギリスの勢力拡大と第二次マラーター戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 13:37 UTC 版)
「シャー・アーラム2世」の記事における「イギリスの勢力拡大と第二次マラーター戦争」の解説
1790年9月9日、マハーダージー・シンディアは皇帝シャー・アーラム2世に王国宰相マーダヴ・ラーオ・ナーラーヤンを皇帝代理人に任じさせ、自分が北インドにおける王国宰相の代理であることに認めさせた。 1794年2月12日にマハーダージー・シンディアは死亡し、ムガル帝国は大いなる庇護者を失った。マハーダージー・シンディアの死後、親族のダウラト・ラーオ・シンディアが後を継いだが、この頃からシンディア家はしだいに弱体化していった。 その一方で、イギリスは東インドを制圧したのち南インドに兵を進め、1799年5月に マイソール王国を第四次マイソール戦争で破り、帝国の忠臣だったマイソール王ティプー・スルターンも死んだ。イギリスが南インド一帯を制圧するなど、インドの植民地化が一段と進んでいる。 また、1800年4月にマラーター王国の有力者ナーナー・ファドナヴィースが死ぬと、宰相バージー・ラーオ2世と、シンディア家やホールカル家、ボーンスレー家などマラーター諸侯との関係が悪化した。 1802年12月にバージー・ラーオ2世はマラーター諸侯に対抗するため、イギリス東インド会社と軍事保護条約(バセイン条約)を結んで領土の一部を割譲し、1803年5月にプネーを追われていた彼はこの条約によりイギリス軍の援助で再び同地に戻った。だが、このことや条約に不満だったマラーター諸侯のシンディア家、ホールカル家、ボーンスレー家などとイギリス東インド会社との間で、同年8月8日に第二次マラーター戦争が勃発した。 無論、ムガル帝国もシンディア家の保護下にあったため、第二次マラーター戦争に巻き込まれ、同年9月11日にイギリス東インド会社軍がデリー市内でシンディア家の軍に攻撃と交戦した(デリーの戦い)。両軍はデリー城下で激しく争ったが、決着は1日でつき、シンディア家は死傷者3,000人を出して敗北し、ムガル帝国はイギリスの保護下に入った。
※この「イギリスの勢力拡大と第二次マラーター戦争」の解説は、「シャー・アーラム2世」の解説の一部です。
「イギリスの勢力拡大と第二次マラーター戦争」を含む「シャー・アーラム2世」の記事については、「シャー・アーラム2世」の概要を参照ください。
- イギリスの勢力拡大と第二次マラーター戦争のページへのリンク