イギリスの制覇 (1758年-1760年)
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「フレンチ・インディアン戦争」の記事における「イギリスの制覇 (1758年-1760年)」の解説
ヴォードルイユとモンカルムは、1758年は最小限の補給を受けただけだった、イギリスの、フランス沿岸の封鎖が、フランス艦の出航を制限していたからだ。1757年の不作で、ヌーベルフランスの状況は一層悪化し、厳しい冬となった。伝えられるところでは、ヌーベルフランスのアンタンダンのフランシス・ビゴが、邪悪なことをたくらんでいた。ビゴの物価を高騰させる手段は、モンカルムとその仲間の私腹を肥やすためのものと信じられていた。また、西部に住むインディアン部族の天然痘の大流行で、ここに住むものが減少した。戦闘に参加した多くの部族が他の部族を非難し、また、フランス人が悪い薬を持ち込んだとも言った。天然痘は、戦闘後の人々が込み合った中で恐らく広まったのだった。この状況からみると、モンカルムは、セントローレンス川の防御、そしてカリヨン、ケベック、ルイブールの主な防御に関してのわずかな方法に集中していた。一方ヴォードルイユは、襲撃による戦術の継続を主張したが失敗した。このやり方は、何年か前には非常に功を奏したのであった。 北アメリカでのイギリスの作戦失敗は、ヨーロッパにおける失敗とも結びついていた。これにより主な軍事顧問でもあったカンバーランド公も第一線を退いて、ピットが軍事作戦を仕切ることになった。ピットは当初、第一大蔵卿デヴォンシャー公のもとで、サザン・デパートメントの国務大臣(英語版)として就任したが、ヨーロッパ戦線を重んじるジョージ2世と対立し、一旦辞任を余儀なくされた その後国民の支持を得て返り咲いたピットは、北アメリカを主眼に置き、ルイブール、カリヨン砦とデュケーヌ砦を奪う作戦をたて、大人数の正規部隊と、それを支援する民兵隊とによる攻撃作戦を展開した。
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