イギリスの兵力集結
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/08 07:17 UTC 版)
「ウィリアム・ヘンリー砦の戦い」の記事における「イギリスの兵力集結」の解説
ウィリアム・ヘンリー砦は、1755年の秋に建設され、大ざっぱな四角形の砦で、隅の稜堡があった。この城塞は、インディアンの攻撃を撃退するためのものではあったが、大砲で攻撃を仕掛ける相手にとっては、十分とは言えない造りだった。壁の厚さは30フィート(約9.1メートル)で、土嚢の上を丸太でおおってあった。砦の中の、練兵場の周囲には2階建ての木造の兵舎があった。北西の稜堡に火薬庫があり、南東には病院があった。三方を干上がった堀に囲まれており、もうひとつの側は湖へと下っていた。この砦に入る唯一の方法は、堀にかけられた橋を渡ることだった。砦の敷地は、駐屯部隊400人から500人程度で一杯になり、その他の部隊は、砦から750ヤード(約690メートル)離れた、1755年のジョージ湖の戦いの戦場の近くで野営をさせられていた。 1756年から1757年の冬の間、ウィリアム・ヘンリー砦の駐屯部隊は、少佐のウィル・アイレが率いる第44歩兵連隊(英語版)の数百人の部隊だった。3月になって、フランス軍は、ヴォードルイユの弟のピエール・ド・リゴー指揮下の1,500人部隊を、攻撃要員として送り込んだ。植民地の海兵隊と、民兵と、インディアン主体の兵力で、重火器は持っていなかったが、砦を4日間包囲し、別棟の建物や、多くの船を壊して退却した。春になって、アイレと部隊に代わって、中佐のジョージ・モンロと第33歩兵部隊(英語版)が駐屯した。モンロは、自分の部隊の多くがいる野営に指令本部を置いた。
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