イギリスの包囲とフランスの退却
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「タイコンデロガの戦い (1759年)」の記事における「イギリスの包囲とフランスの退却」の解説
アマーストは「今年の早いうちに、たとえば5月の7日に、または7日ごろに、もしその時期で可能なのであれば」 自らの軍を動かすよう命じられていたにもかかわらず、1万1千人から成るこの軍は、7月21日までジョージ湖の南岸を発とうとしなかった。出発が遅れた理由はいくつかあったが、その一つは兵站だった。プリドーのオスウィーゴとナイアガラへの遠征隊もオールバニを発ったが、 こちらは植民地の民兵の到着に時間がかかっていた。 分隊がやっと到着して、フォート・カリヨンへ向かい始めた時、アマーストは、フランス軍が要塞の外の防御を放棄したことを知って気をよくした。それでも警戒しつつ軍を進め、7月22日に、1758年の戦い以来フランスの陣地だった場所を占領した。カリヨンでは、フランス軍が積極的に船(バトー)に荷物を積み込んでいるという知らせが、あちこちから届いていた。アマーストの当初の予定は、要塞の側面を攻撃して、フランス軍がフォート・セント・フレデリックへ逃げるための道をふさぐというものだった。しかし要塞の外の戦闘をフランス軍が放棄したため、要塞そのものを攻撃対象にしようとアマーストは決意した。 それから3日間、イギリス軍は塹壕を掘って、包囲線を作り、要塞近くに基盤を築いた。要塞の近くに掘り起こしにくい地面があったり、そして、包囲線を作るのに土のうが必要であったりで、この作業は難航した。作業中、フランスの大砲から弾丸が発射された。イギリスにしてみれば、これは耐え難いことだった。7月25日、ロジャーズ・レンジャーズの分遣隊が、要塞の北にある湖にボートを下ろし、フランス軍が、船を北に向かわせないために仕掛けておいた流木網場を切り開いた。翌26日までに、イギリス軍は、要塞の壁600フィート(約183メートル)のところに大砲を運び込んだ。 ブールラマクはカリヨンから兵をすべて撤退させたが、イギリス軍の接近を知るや否や、自軍の兵400人をフォート・フレデリックに回した。この少人数の軍での砲火は、包囲戦に出ていたイギリスの兵5人を殺し、31人を負傷させた。防御のために残っていた、フランス軍大尉のルイ=フィリップ・ル・ドス・デベクールは、7月26日の夜こそ撤退の時期と判断した。彼の兵たちは、カリヨンの要塞の大砲を壁の方に向け、地雷を置いて、中身がぎゅうぎゅう詰めの火薬庫へ火薬をまいて道を作った。そしてフランス軍は、導火線に火をつけ、風にひるがえるフランスの旗を残して、要塞を後にした。 イギリス軍は、フランス兵が要塞から現れたのを見てこのことを悟り、アマーストは、要塞に入って導火線を消そうとする兵に、100ギニー与えるともちかけた。誰も名乗り出ようとはしなかった。 その夜遅く、要塞は、耳をつんざくような轟音とともに爆発した。火薬庫は破壊され、木造の要塞のあちらこちらが燃えさしとなって飛び散った。しかし、要塞の壁はさほどの損傷を受けていなかった。 この爆発の後、ゲイジ歩兵部隊の何人かの兵が要塞に飛び込んで、フランスの旗を回収しようとした。それから2日間、火は完全には消し止められず、くすぶり続けた。
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