東方での戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 00:03 UTC 版)
東方におけるカワード1世の戦争については多くのことは知られていない。プロコピオスによれば、503年にカワード1世は多くの対立勢力の一つであり、長期にわたって戦ったと伝えられる「敵対的なフン」の攻撃に対処するために東方の国境へ向かうことを余儀なくされた。484年のエフタルによるサーサーン朝の壊滅的な打撃の後、ホラーサーンの全域がエフタルによって占領されていた。カワード1世の最初の治世からは、ホラーサーン(ニーシャープール、ヘラート、メルヴ)で鋳造されたサーサーン朝の硬貨は発見されていない。同じ時期にゴルガーン(当時最北端のサーサーン朝の領土であった)で鋳造された硬貨の数の増加は、カワード1世が毎年エフタルに対して支払っていた貢納の存在を示唆している可能性がある。しかし二度目の治世中にカワード1世の運勢は変化した。508年にサーサーン朝の軍事作戦によって、ボストとカンダハールの間に位置するアド・ダワール地域のズンダベール・カステルム(アズ・ズニン神殿と同一視されている)が征服された。また、512年か513年に鋳造されたサーサーン朝の硬貨がメルヴで発見されている。これはカワード1世の下でサーサーン朝がエフタルへの対処を成功させ、ホラーサーンを再征服したことを示している。
※この「東方での戦争」の解説は、「カワード1世」の解説の一部です。
「東方での戦争」を含む「カワード1世」の記事については、「カワード1世」の概要を参照ください。
東方での戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 23:53 UTC 版)
588年、サーサーン朝は混乱の中にあった。アラブ人が西方の属州で略奪を始め、ハザール人に北部の属州を奪われており、突厥とエフタルの残党がバルフを占領してペルシアの中核地帯を侵していた。この時Mihransitadの子Nastuhは自分の父親の知識が王の役に立つだろうとホルミズド4世に語った。これを受けてホルミズド4世はMihransitadを呼び出した。フェルドウスィーによれば、Mihransitadはホルミズド4世に占星術師がバフラーム・チョービン(英語版)がイランの救世主となることを予言したことを語った。そして彼はバフラーム・チョービンを宮廷に召喚するべきであると主張した。高齢だったMihransitadはその後すぐ死亡したと言われている。ホルミズドはこの助言を実行し、バフラーム・チョービンを呼び寄せた。 バフラーム・チョービンが実際にホルミズド4世の宮廷で権力を確立していったことは疑いない。シモカテスによればバフラーム・チョービンはホルミズド4世の「王朝の炉」のdarīgbed(darigbedum)になっている。この地位にどのような権力があったのか正確にはわからないが、サーサーン朝の後期において極めて重要な地位であったことは間違いない。バフラーム・チョービンは東方のサーサーン朝軍の最高司令官に任命され派遣された。彼は12,000騎の騎兵を率いてバルフを制圧し、エフタルが勢力を持っていた現在のアフガニスタン地方も征服した。更にオクサス川を渡り、突厥のハーンを殺害し最終的にブハラ近郊のRūyīn Dizhという要塞まで進軍した。 そのすぐ後には、バフラーム・チョービンはハザール人と戦うために北部の前線に送られ、彼がこれの撃退に成功したために北部の脅威は消滅した。彼は続いて北部の前線でローマ(ビザンツ)と戦うために派遣され、迅速に勝利を収めてスヴァネティを襲撃したのみならず、カフカス・アルバニアに対するカフカス・イベリアとローマの攻撃を撃退したが、その後アラス川の戦いでローマの将軍ロマヌスに敗れた。 ホルミズド4世はバフラーム・チョービンの名声の高まりを妬み、彼の面目を潰し、サーサーン朝の官職から彼を外した。ホルミズド4世は更に彼を辱めるため、女性用の衣服一式を送った。これに対しバフラーム・チョービンは極めて攻撃的な手紙を送って返した。怒り狂うホルミズド4世はバフラーム・チョービンを捕縛するためにペルシア兵を派遣したが、彼らはバフラーム・チョービン側に寝返った。バフラーム・チョービンは大軍とともに首都クテシフォンへと進軍(英語版)した。
※この「東方での戦争」の解説は、「ホルミズド4世」の解説の一部です。
「東方での戦争」を含む「ホルミズド4世」の記事については、「ホルミズド4世」の概要を参照ください。
- 東方での戦争のページへのリンク