東方での活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 01:48 UTC 版)
ローマはこの頃には名実ともに西地中海の覇者となっており、さらなる遠征の矛先はもはやカルタゴではなく、地中海東部のヘレニズム世界に向けられていた。紀元前214年には、マルクス・ウァレリウス・ラエウィヌスが率いる小規模な艦隊がマケドニア王ピリッポス5世率いるマケドニア艦隊を打ち破り、マケドニアのイリュリア侵攻を阻止。つまりこの頃には東方ですでに小規模ながら軍事衝突も発生していた。そして上記の衝突をきっかけとしてマケドニア王国とローマの間に第一次マケドニア戦争が勃発した。その後の戦争は主にローマの同盟国であるアエトリア同盟・ペルガモン王国(←こちらは戦争後半から参戦。)らによって進められた。しかし、ローマ海軍は、戦争が終わる紀元前205年までの間、ペルガモン王国の海軍と共に合わせて60隻ほどの艦隊でエーゲ海をパトロールしていたという。この戦争では、ローマは西方にてカルタゴとも交戦していたため、ギリシア半島にローマ領を獲得する意思を持ってはおらず、ピリッポス5世率いるマケドニア勢力がギリシアにて勢力拡大するのを防ぐことが目標であった。この戦争は結果、両者膠着状態に陥いった。そして、紀元前201年、ピリッポス5世が当時エーゲ海に勢力を張っていたロードス勢力に対して攻撃を仕掛けたことで、再び戦争が活性化した。この戦争はロードス側の勝利で終わったものの両者に甚大な被害を与え、敗北したマケドニアに至っては旗船を含む多くの軍船を失った。その後すぐにロードス・ペルガモン同盟はローマに救援を要請し、ローマはそれに応えてマケドニアに宣戦布告し、再びマケドニアとの間に戦争が勃発した。強力な海軍力を持つローマに対して、マケドニアは海上で競り合うことを避け、陸上での戦闘が主に行われた。(ロードスとの戦闘でマケドニアは多くの艦隊を失っており、マケドニア海軍は弱体化していたためでもある。)ローマはマケドニアと衝突し、紀元前197年にはキュノスケファライにて両軍が激突した。この戦闘でマケドニアはローマに完敗を喫し、ローマに降伏した。この際マケドニアに対して取り決められた終戦条約はマケドニアに非常に厳しいもので、マケドニアから完全に海軍力を排除されることとなった。 ローマがマケドニアを打ち破ってすぐ、ローマはセレウコス朝シリアから宣戦布告され、ローマはシリアと交戦状態に陥った。この戦争でも、多くの戦闘は陸上で行われた。(海上でも戦闘は行われ、紀元前190年にはミョネソスの戦い・エウリュメドン川の戦いが行われている。)この戦争はまたしてもローマの勝利に終わり、終戦条約ではセレウコス朝シリアのさらなる海軍増備・整備の禁止が条件となった。これにより地中海世界にヘレニズム国家の海軍は消滅したことになり、地中海に残る海軍はローマのもとの、ローマの同盟国のもののみになった。その後行われた第三次ポエニ戦争でかつての海軍強国カルタゴは滅亡し、第三次マケドニア戦争ではローマに何度も挑戦してきたマケドニアが滅亡。紀元前2世紀後半にはのちに我らが海と呼ばれることとなる領域(=地中海)は完全にローマの勢力下に収まった。その後、ローマ海軍は抜本的に削減され、ローマ配下の同盟市などから供給される海軍部隊のみが海軍として残ることになった。
※この「東方での活躍」の解説は、「ローマ海軍」の解説の一部です。
「東方での活躍」を含む「ローマ海軍」の記事については、「ローマ海軍」の概要を参照ください。
- 東方での活躍のページへのリンク