東方での展開とは? わかりやすく解説

東方での展開

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 00:15 UTC 版)

マニ教」の記事における「東方での展開」の解説

マニ直弟子マール・アンモーとアルサケス家(パルティア王族)のアルタバーンは旧パルティアイラン高原北東部)で宣教活動行っていたと伝えられている。 マニ教西アジアからユーラシア大陸東西拡大しウイグルでも多く信者獲得した。 唐においては694年伝来して「摩尼教」・「末尼教」と音写され、教義からは「明教」・「二宗教」との訳語もあった。「白衣白冠の徒」と言われ東方マニ教(明教)は、景教キリスト教ネストリウス派)・祆教ゾロアスター教と共に三夷教三夷寺呼ばれ代表的な西方起源諸宗教の一つと見なされた武則天則天武后)は官寺として首都長安大雲寺建立した。これには、ウイグルとの関係を良好に保つ意図があったとも言われている。768年、大光明寺建てられこののち8世紀後葉から9世紀初頭長江流域大都市洛陽太原などの都邑にもマニ教寺院建てられた。 しかし、843年、唐の武宗によって禁教されるに至った845年始まった会昌の廃仏」では、仏教三夷教禁止され多く聖職者宣教者は還俗させられマニ教僧も多く殉教者出したことが、唐にあった日本円仁の『入唐求法巡礼行記』に記されている。 回鶻ウイグルにおいては8世紀後半3代牟羽可汗時代マニ教国教とされるほどの隆盛国家的保護得た。やがて反マニ教勢力巻き返しにより弾圧されたが、8世紀末から9世紀初頭7代懐信可汗によって再び国教化された。しかしその後、イラン・アフガニスタンに続いてウイグルでもイスラム化進み14世紀後半ティムールによるティムール朝建国以降中央アジアイスラム化はさらに進行した三武一宗の法難会昌の廃仏)後の五代十国時代から宋において、マニ教仏教・道教一派として流布し続けた歴史小説水滸伝』の舞台となった北宋の「方臘の乱」の首謀者方臘マニ教徒だったとも言われるマニ教は、弾圧のなかで呪術的要素強め取り締まりに手を焼く権力者から「魔教」とまで称された。官憲によるマニ教取り締まりはしばし江南地方四川でなされ、その中でマニ教信者は「喫事魔の輩」(「菜食で魔に仕える輩」の意)とも呼ばれた宗教寛容元朝のもとでは、明教(マニ教)が復興し福建省泉州浙江省温州中心に教勢を拡げた。明教と弥勒信仰習合し白蓮教は、元末に紅巾の乱起こし、その指導者朱元璋建てた明の国号は「明教」に由来したとも言われる。しかし明が安定期に入ると、マニ教危険視されて弾圧された。15世紀には教勢衰退著しかったが、秘密結社通じて19世紀末まで受け継がれた。1900年北清事変義和団の乱)の契機となった排外主義的な拳闘集団である義和団なども、そうした秘密結社一つと言われる。 なお、藤原道長御堂関白記』など、日本古代中世における日記具注暦日曜日を「密」と記すのは、マニ教信者日曜日聖なる日として断食日にあてた暦法日本にまで至ったことの証左であると言われる

※この「東方での展開」の解説は、「マニ教」の解説の一部です。
「東方での展開」を含む「マニ教」の記事については、「マニ教」の概要を参照ください。

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