東方の宗教改革と宗教的寛容
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「東方の宗教改革と宗教的寛容」の解説
宗教改革の影響は東方にもおよび、ポーランドでは1520年代にはバルト海沿岸などにルター派が、1540年代にはヤン・フスの流れを汲むボヘミア兄弟団(モラヴィア教会)やカルヴァン派の教義がシュラフタ(貴族)層に広がり、1562年にはカルヴァン派のなかから急進的な反三位一体派(ユニテリアン)が分離してポーランド兄弟団(英語版、ポーランド語版)を形成した。ポーランドでは宗派対立よりもシュラフタにおける身分的紐帯が上まわり、もともと東方正教会などカトリック以外の宗派も存在していたことからも、多様な宗派の共存が可能であった。1570年には、サンドミエシ(ポーランド語版)でルター派、カルヴァン派、ボヘミア兄弟団の三者間の相互協力が成立している。また、1573年にはシュラフタによる国王自由選挙がおこなわれたポーランド・リトアニア共和国において空位期の治安用にワルシャワ連盟が組織され、宗派間の寛容を保障するワルシャワ連盟協約が締結された。規約には、「…異なった信仰と諸教会における差異のために血を流すことをせず、財産没収、名誉剥奪、投獄、追放によって罰しない」(小山哲訳)と記されている。 一方、16世紀前半においてハプスブルク家の支配下にあったハンガリー王国は、1526年のオスマン帝国とのモハーチの戦いでの大敗後、1529年と1541年の2度にわたってスレイマン1世の親征を受け、その過程でオスマン直轄領、ハプスブルク支配域、オスマンの宗主権を認めつつも高度な自治権を有する東ハンガリー王国(のちのトランシルヴァニア侯国)に三分された。この地域ではイスラームへの大量改宗は起こらなかったが、都市部においてはハンガリー人とオスマン人の日常的な交流がみられた。民族的には、ハンガリー人、セーケイ人、サース人(ザクセン人)と称されたドイツ人などによる多民族社会で、ヴロフと呼ばれた牧羊民やルーマニア系などは少数派であった。東ハンガリーの君主となったのは、トランシルヴァニア出身でかつてフェルディナントに対抗してハンガリーの対立王となったサポヤイ・ヤーノシュの嗣子、ヤーノシュ・ジグモンドであった。1556年、コロジュヴァールの国会はトランシルヴァニアのハンガリー王国からの独立と新国家の財政用に教会所領地の世俗化を宣言した。トランシルヴァニア侯となったヤーノシュ・ジグモンドはユニテリアンの信仰に立っていたが、1564年にカルヴァン派の信仰を公認し、1568年にはカトリック、ルター派、カルヴァン派を公認宗教として認めるトランシルヴァニア侯国議会の議決を受け、全面的な信教の自由を認めるトゥルダ勅令を発布した。1571年には、ほかのヨーロッパで異端とみなされた反三位一体派(ユニテリアン)を公認宗教に加えた。トランシルヴァニアを含む旧ハンガリー王国領では、新教擁護と信仰の自由をかかげるトランシルヴァニア侯の威光は絶大かつ長期にわたり、その点でハンガリーは1620年代以降にプロテスタント勢力がほぼ一掃されてしまったオーストリアやボヘミア諸邦とは好対照をなしている。ただし、トランシルヴァニア侯国議会に代表を送れたのは、ハンガリー、セーケイ、ザクセンの「3民族」だけであり、農業や遊牧にたずさわった当時のルーマニア系住民の宗教である東方正教会の信仰は、寛容されるだけにとどまった。 ポーランドやトランシルヴァニアの例は、政教分離の先駆的な形態と見なせる。ポーランドにあっては16世紀末葉にカトリック側の攻勢が強まり、宗教的寛容は停滞したが、トランシルヴァニアではカトリックのバートリ・ジグモンド、反乱を経てトランシルヴァニア侯に認められたカルヴァン派のボチカイ・イシュトヴァーン、同じくカルヴァン派のベトレン・ガーボル、ラコーツィ・ジェルジ1世など、歴代の君主は自身の宗教に関係なく宗教寛容策を継続した。これは、当時にあってほかに類のないものであった。とくに、ベトレン・ガーポルは再洗礼派やユダヤ式の土曜安息日派の宗教も認め、カトリックに対しても複数の教会を返還して司教総代理を許可し、イエズス会士は国内では禁じられていたものの何人かは入国を許すなど、公平な宗教政策を展開し、政治、法律、経済、軍事、文化、教育の各方面で多大な業績をあげた。 トランシルヴァニアは16世紀から17世紀にかけての中東欧にその宗教的寛容で名を馳せ、ジョルジオ・ビランドラタ、ヨハネス・ゾンマー、クリスチャン・フランケン、ヤコブス・パレオロゴス、マティアス・ヴェヘ=グリリウスなど故国を追われた神学者たちは、この地に隠れ棲んだのである。
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