東方の宗教改革と宗教的寛容とは? わかりやすく解説

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東方の宗教改革と宗教的寛容

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 03:54 UTC 版)

ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「東方の宗教改革と宗教的寛容」の解説

宗教改革の影響東方にもおよび、ポーランドでは1520年代にはバルト海沿岸などにルター派が、1540年代にはヤン・フス流れを汲むボヘミア兄弟団モラヴィア教会)やカルヴァン派教義シュラフタ貴族)層に広がり1562年にはカルヴァン派のなかから急進的な三位一体派(ユニテリアン)が分離してポーランド兄弟団英語版ポーランド語版)を形成したポーランドでは宗派対立よりもシュラフタにおける身分的紐帯が上まわり、もともと東方正教会などカトリック以外宗派存在していたことからも、多様な宗派共存が可能であった1570年には、サンドミエシ(ポーランド語版)でルター派カルヴァン派ボヘミア兄弟団三者間の相互協力成立している。また、1573年にはシュラフタによる国王自由選挙おこなわれたポーランド・リトアニア共和国において空位期治安用にワルシャワ連盟組織され宗派間の寛容保障するワルシャワ連盟協約締結された。規約には、「…異なった信仰と諸教会における差異のために血を流すことをせず、財産没収、名誉剥奪投獄追放によって罰しない」(小山哲訳)と記されている。 一方16世紀前半においてハプスブルク家の支配にあったハンガリー王国は、1526年オスマン帝国とのモハーチの戦いでの大敗後、1529年1541年2度わたってスレイマン1世親征を受け、その過程オスマン直轄領ハプスブルク支配域、オスマン宗主権認めつつも高度な自治権有する東ハンガリー王国(のちのトランシルヴァニア侯国)に三分された。この地域ではイスラームへの大量改宗は起こらなかったが、都市部においてはハンガリー人オスマン人日常的な交流がみられた。民族的には、ハンガリー人セーケイ人サース人ザクセン人)と称されドイツ人などによる多民族社会で、ヴロフと呼ばれた牧羊民やルーマニア系などは少数派であった。東ハンガリー君主となったのは、トランシルヴァニア出身でかつてフェルディナント対抗してハンガリー対立王となったサポヤイ・ヤーノシュ嗣子ヤーノシュ・ジグモンドであった1556年コロジュヴァール国会トランシルヴァニアハンガリー王国からの独立新国家財政用に教会所領地世俗化宣言したトランシルヴァニアとなったヤーノシュ・ジグモンドユニテリアン信仰立っていたが、1564年カルヴァン派信仰公認し1568年にはカトリックルター派カルヴァン派公認宗教として認めトランシルヴァニア侯国議会議決を受け、全面的な信教の自由認めトゥルダ勅令発布した1571年には、ほかのヨーロッパで異端みなされた反三位一体派(ユニテリアン)を公認宗教加えたトランシルヴァニアを含む旧ハンガリー王国領では、新教擁護信仰の自由をかかげるトランシルヴァニア侯の威光絶大かつ長期にわたり、その点でハンガリー1620年代以降プロテスタント勢力がほぼ一掃されてしまったオーストリアボヘミア諸邦とは好対照をなしている。ただし、トランシルヴァニア侯国議会に代表を送れたのは、ハンガリーセーケイザクセンの「3民族」だけであり、農業遊牧たずさわった当時ルーマニア系住民宗教である東方正教会信仰は、寛容されるだけにとどまったポーランドトランシルヴァニアの例は、政教分離先駆的な形態と見なせる。ポーランドにあっては16世紀末葉カトリック側の攻勢強まり宗教的寛容停滞したが、トランシルヴァニアではカトリックバートリ・ジグモンド反乱経てトランシルヴァニア侯に認められカルヴァン派ボチカイ・イシュトヴァーン同じくカルヴァン派ベトレン・ガーボルラコーツィ・ジェルジ1世など、歴代君主自身宗教に関係なく宗教寛容策を継続した。これは、当時にあってほかに類のないものであった。とくに、ベトレン・ガーポルは再洗礼派ユダヤ式の土曜安息日派の宗教認めカトリックに対して複数教会返還し司教総代理許可しイエズス会士国内では禁じられいたもの何人かは入国を許すなど、公平な宗教政策展開し政治法律経済軍事文化教育各方面多大な業績をあげた。 トランシルヴァニア16世紀から17世紀にかけての中東欧にその宗教的寛容名を馳せ、ジョルジオ・ビランドラタ、ヨハネス・ゾンマー、クリスチャン・フランケン、ヤコブス・パレオロゴス、マティアス・ヴェヘ=グリリウスなど故国追われ神学者たちは、この地に隠れ棲んだのである

※この「東方の宗教改革と宗教的寛容」の解説は、「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の解説の一部です。
「東方の宗教改革と宗教的寛容」を含む「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事については、「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の概要を参照ください。

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