東方の星教団解散・神智学協会からの離脱
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「ジッドゥ・クリシュナムルティ」の記事における「東方の星教団解散・神智学協会からの離脱」の解説
クリシュナムルティは崇拝者に囲まれたが、その状態を喜んでいなかった。彼は、真理は権威者を必要とするものではなく、まして集団に属するものではありえないと考えていた。1919年からの10年間、神智学協会はスキャンダルがありながらも、サマー・キャンプとクリシュナムルティの魅力によって、小型の国際連盟のようなものとして若者の人気を集めた。1925年に、クリシュナムルティはベサントのもとに人をやって(伝える間本人は、家の前に停めた車の中で待っていた)、使徒や霊門通過といった神智学協会のやり方を受け入れないと伝え、これを聞いたベサントは急激に衰えていったという。オランダに招待された1929年8月2日34歳で、「あなた方は他の会を作って、誰か他の人を選んでください。その会には私は関係しないし、新しい会を作ろうとも思いません。私の関係するのは絶対的に人を解放することであり、無条件に自由にすることであります」と言って、3,000人あまりの団員がいた「東方の星教団」を解散した。この折の、「真理はそこへ至る道のない土地である(Truth is pathless land)」というフレーズがよく知られている。世界教師の宣言から教団の解散まで、わずか4年のことだった。宗教学者の斎藤昭俊は、彼は「永遠なる目的」=「永遠なる幸福」を得るという信念をもって、自分自身を解放する爆弾発言をしたが、これは彼が少年時代から神智学協会で育てられ、束縛され、ある意味で利用されてきたことへの反対であり、束縛は自己を見失わせ、自己を見失えば目的への道を見出すことができないからであると解説している。 「東方の星教団」を解散したクリシュナムルティは、1930年に神智学協会を離れた。1931年に、クリシュナは少年時代、青年時代の記憶、特に神智学協会入会に関する記憶を失っていることに気付いた。
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