東方への侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 06:05 UTC 版)
諸侯と騎士からなる十字軍本隊は、計画通り1096年8月にヨーロッパを各自出発し、ゴドフロワ・ド・ブイヨンらはハンガリーからブルガリアを経由、ユーグ・ド・ヴェルマンドワやノルマンディー公、フランドル伯らはイタリアからアドリア海を渡り、ギリシャを東西に横断した。彼らは12月にコンスタンティノープルの城壁外に集結したが、それは民衆十字軍壊滅の2ヶ月後のことであった。この本隊にも騎士だけでなく、必要な装備にも事欠く多くの民兵が付き従っていた。民衆十字軍の壊滅から生還した隠者ピエールも、民衆十字軍の生き残りの人々と共にこの本隊に合流したが、再び雑兵の統率者に祭り上げられた。民兵は小グループに再編成されて行動した。 なんとかコンスタンティノープルにたどりついた十字軍将兵はすでに食料が乏しかったが、武装した軍隊が要求すれば皇帝アレクシオス1世から食料が提供されるものと考えていた。しかし、アレクシオス1世はまったく統制のとれていない民衆十字軍を見ていたことや、軍勢の中に南イタリアを奪った宿敵であるノルマン人のボエモンがいたため猜疑心を抱き、指導者層に向かって、食料を提供する代わりに、自分に臣下として忠誠の誓いを立て、さらに占領した土地はすべて東ローマ帝国に引き渡すことを誓うよう求めた。十字軍指導者層と皇帝の間でギリギリの駆け引きが続けられ、武器を取っての小競り合いにまでなったが、なんとか双方が妥協に至った。
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