東方の情勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 09:33 UTC 版)
「クヌート1世 (イングランド王)」の記事における「東方の情勢」の解説
1016年のネシャールの海戦(英語版)にて、オーラヴ2世はデーン人からノルウェー王国(英語版)を勝ち取った。エイリーク・ハーコナルソンがイングランドに発ってからしばらくして、スウェーデンに退却していたスヴェンが死亡した時、おそらくノルウェーに援軍を連れて戻るつもりだったとされるが、エイリークの息子ハーコン・エリクソン(英語版)も彼に同行してイングランドでクヌートを支援した。 クヌートの兄ハーラルは、1016年のクヌートの戴冠式に出席し、その後のある時点で艦隊の一部と共にデンマーク王として帰国したのかもしれない。1018年にカンタベリー大聖堂と共にあった協会にて、クヌートのものと並んで彼の名前が記されたことのみは確かである。これは決定的なものではない。というのも、その記入はハーラルが不在の間に、おそらくクヌート自身の手によって行われた可能性がある。つまり、大抵の場合ハーラルは1018年に死亡したと考えられており、この時点で彼が生きていたかどうかは明らかではない。カンタベリーのコデックスに義兄の名を記載したことは、ハーラル殺害への報復を教会に有利にするための、クヌートの企図だったのかもしれない。これは、魂が神の加護の下にあることを示す単なるジェスチャーだったのかもしれない。 イングランドとデンマーク、どちらの海岸であったかは不明だが、1018年にクヌートが「海賊」と戦い、30隻の船の乗組員を殺害したという証拠がある。イングランドとデンマークの王として書かれた1019年の手簡(デンマーク発イングランド宛)にて、彼自身は騒動について触れている。これらの出来事は、尤もらしく、ハーラルの死と関連していると見られる。クヌートは、デンマークがイングランドを確実に、自由に援助できるよう反対派に対処したと述べている。 クヌート王がイングランドの大主教、教区司教、Thurkil伯、全伯爵、…聖職者、そして信者に対し友好の挨拶をする…余は慈悲深い領主であり、神の道理と世俗の法の忠実な順守者になることを告げる。神の道理…そして民衆の利益 (の維持にて司教らを支援するようエアルドルマンらに説き勧める)。もし聖職者であれ平信者であれ、デーン人であれイングランド人であれ、誰かが神の法と余の王権、あるいは世俗の法に僭越にも背いた場合、余の司教らの指示に従って改心し止めようとしなければ、余は祈り、また可能であればThurkil伯に命じ、悪事を働く者に正しい行いをさせるようにする。もしその者ができなければ、その時は余の意志として、我等二人の力で、身分の高低を問わず、その者をこの地で滅ぼし、あるいは追い出すことにする。そして、余の意志は、全ての国民、聖職者と平信者が、オックスフォードで選び誓ったエドガーの法律を、堅実に守ることである。 余は金を惜しまなかった故、敵意が諸君らを脅かしていた限り、神の助けを得てそれに終止符を打った。その時、我等が好んだよりも大きな危機が迫っていることを余は知らされた。その後、余は同行した者らと共に、最大の被害を受けたデンマークに赴き、神の助けを得て、諸君が余を正当に支援し、余の命が続く限り、今後決して向こうから敵意が届くことのないようにした。今、余は全能の神の助けと慈悲に感謝しており、我等に迫っていた大きな危機を余が鎮めた故、そこからの脅威を恐れる必要はないが、もし必要であれば、万全の助けと救済を期待できるだろう。 —1019年のクヌートの手簡よりTrow 2005, pp. 168–169
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