日本海軍の米空母対策
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「ドーリットル空襲」の記事における「日本海軍の米空母対策」の解説
1930年(昭和5年)の時点で日本海軍は、アメリカ海軍が保有するレキシントン級航空母艦(レキシントン、サラトガ)による東京空襲と、空母艦載機による爆撃や毒ガスによる市民への被害を指摘していた。空母による空襲のほかにも、米軍航空部隊がソ連領やアリューシャン列島に基地を進め、陸上機により日本本土空襲を行う可能性もあった。1942年(昭和17年)2月下旬の図上演習では、米軍がニア諸島のセミチ島(アッツ島の近辺)に基地を建設し、開発されたばかりの米超大型爆撃機による帝都空襲に成功している。 また連合艦隊司令長官山本五十六大将は、昭和16年1月の及川古志郎海軍大臣にあてた「戦備ニ関スル意見」の中で、日本本土が空襲された場合の国民の動揺を懸念していた。大本営海軍部(軍令部)も本土空襲を懸念していたが、山本長官ほどの危機感はもっていなかった。いずれにせよ米機動部隊による本土空襲(特に帝都空襲)を懸念していた日本海軍は、太平洋戦争開戦と共に日本列島東方約700浬に特設監視艇による哨戒網を構築し、基地航空隊の陸上攻撃機による長距離索敵との相乗で、米機動部隊を監視することにした。敵機動部隊来襲の場合、在内地艦船と航空部隊をもって邀撃する方針である。ただし、監視艇・哨戒機の数は不十分であった。 1941年(昭和16年)12月8日の開戦時、アメリカ海軍は作戦行動可能な空母を7隻(真珠湾方面配備〈レキシントン、エンタープライズ〉、西海岸および大西洋方面配備〈サラトガ、ヨークタウン、ホーネット、ワスプ、レンジャー〉)保有していた。真珠湾攻撃で日本海軍はアメリカ太平洋艦隊の戦艦群に大打撃を与えたが、空母の捕捉には失敗した。大本営海軍部は「米海軍は小部隊によるゲリラ戦に出るだろう」と判断しており、山本長官は「ゲリラ戦」が米空母部隊による本土空襲と判断していたという。 開戦以後、ハワイ方面の監視に従事していた日本海軍潜水艦部隊は幾度か米空母を発見するが、損害を与えられなかった。1942年(昭和17年)1月初旬、伊号第三潜水艦がハワイ近海で米軍機動部隊を襲撃(失敗)。同方面の日本海軍潜水艦が索敵したところ、1月12日に伊号第六潜水艦が「レキシントン型1隻撃沈」を報告する。実際の戦果は空母サラトガ大破で、同艦は半年ほど修理を強いられた。1月24日、クェゼリン環礁に帰投した伊六からの詳細報告により、連合艦隊はレキシントンの撃沈を確信する。連合艦隊は「当分、米機動部隊は太平洋方面で行動しないだろう」と判断、警戒態勢を緩めるとともに、南雲機動部隊(第一航空艦隊)をラバウル攻略作戦や南方作戦に転用した。東方の情勢に懸念をもっていた宇垣纏連合艦隊参謀長も、各艦隊・部隊の意見に押し切られた。 だが、アメリカ軍空母機動部隊は1942年2月初旬のマーシャル・ギルバート諸島機動空襲を皮切りにウェーク島や南鳥島など、日本軍の警戒が手薄な拠点に牽制攻撃を敢行した。日本海軍は潜水艦や陸上基地航空隊で邀撃あるいは索敵攻撃をおこなったが、米機動部隊を補足できなかった。連合艦隊参謀長の宇垣纏少将は2月2日の陣中日誌『戦藻録』に「今回の事正に頂門の一針なり。開戦以来既に二ヶ月に垂んとす。彼も亦無策に終る筈なし。冒険性は彼の特徴なり。今や戦局南に西に火花を散らすの時機に投じたりと謂ふべく実効果と合はせ牽制の目的を達したり。今後と雖も彼として最もやりよく旦効果的なる本法を執るべし。其の最大なるものを帝都空襲なりとす。」と記した。宇垣少将は3月11日と12日の日誌にも同様の懸念を表し、戦勝祝賀日の最中に本土空襲があることを想定して「其の結果思ふだに戦慄を禁ずる能はず」と述べている。 2月8日、連合艦隊は通信量の増大から「対米国艦隊第三法」を発動し、横須賀に在泊中の空母翔鶴を出動させた。第五航空戦隊と第一艦隊の戦艦により「警戒部隊」を編成、米空母部隊の捕捉撃滅を命じたが異常はなく、2月15日に第三法解除に至った。3月10日、連合艦隊は通信情報から米機動部隊が日本本土に来襲すると判断、対米国艦隊作戦第三法を発令した。警戒部隊・潜水艦部隊・陸上基地航空隊が出撃したものの米機動部隊は出現せず、3月18日の「第三法止メ」に至った。1月下旬以降、米軍機動部隊に関連する無線情報は1月31日・2月7日・17日・3月10日・28日の五回であったが、適中したのは1月31日と2月17日だけだった。 以上のように、日本海軍は米軍機動部隊の奇襲に翻弄され、有効な対策をとれなかった。真珠湾方面は警戒が厳しくて、潜水艦による偵察ができなかった。東太平洋方面の海軍航空兵力はトラック泊地方面の第二十四航空戦隊(常用陸攻27、飛行艇18、戦闘機27)、関東地区の木更津海軍航空隊と横須賀海軍航空隊にすぎず、反撃はおろか哨戒すら満足にできなかった。連合艦隊は受け身の不利を痛感し、敵空母をおびき出して撃滅するという着想に至る。軍令部や日本陸軍との折衝により二転三転したのち、連合艦隊は5月上旬にポートモレスビーを攻略(1月下旬に発令済み)、6月上旬にミッドウェー作戦を実施、7月上旬にFS作戦、10月を目途にハワイ攻略作戦の準備という計画を練った。 4月5日、大本営海軍部はミッドウェー攻略とアリューシャン西部要地攻略作戦に同意、採用を内定した。日本陸軍は「この作戦はハワイ攻略の前提ではないか」「アリューシャン作戦はソ連に悪影響を与えるのではないか」と疑っており、ミッドウェーおよびアリューシャン作戦に陸軍部隊の派遣を拒否した。4月16日、永野修身軍令部総長は長期自給戦略態勢確立と戦争終末促進をはかる「第二作戦計画」について昭和天皇に上奏、裁可を得た。同日、軍令部は大海指第85号により連合艦隊(山本五十六司令長官)と支那方面艦隊(古賀峯一司令長官)に対し第二段作戦方針を指示した。ミッドウェー作戦、FS作戦(フィジー、サモア方面)、インド洋作戦、ハワイ攻略準備について触れていたとみられる。
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