日本海軍による運航
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 17:59 UTC 版)
「オプテンノール (船)」の記事における「日本海軍による運航」の解説
日本海軍は、オプテンノールをマカッサルへと碇泊させた。本船の碇泊期間は1942年10月まで9カ月も続き、その間の6月に誤爆を避けるためにオランダ船旗は降ろされて、日本海軍旗が掲げられた。マカッサル碇泊中、オプテンノールは負傷者を中心とした連合軍捕虜の収容に使われた。この状況に、オランダ側は強く抗議し、日本側も反論、外交問題となった。 1942年(昭和17年)10月、日本海軍は本船を日本本土へ回航して改装、病院船として使用することにした。回航の際には日本側乗員が運航し、オランダ人は医療関係者や高級船員だけが残され、同年12月の日本到着後に外国人収容所へと移された。船名は、オプテンノールのもじりで天応丸(日本海軍の法令上は旧字の天應丸)と改名される。12月20日、天応丸は特設病院船に類別され、横須賀鎮守府所管と仮定。本船はこの際の改装工事により、煙突が短く太い外観に変更されたほか、船尾甲板上に上部構造物が追加された。工事は1943年(昭和18年)4月までに完了した。同年4月25日に横須賀を出港してラバウルからの患者収容に向かって以後、ラバウルやトラック島との間で1944年(昭和19年)9月までに8回の航海に従事した。任務中、アメリカ海軍によるトラック島空襲(昭和19年2月中旬)に遭遇した際には無傷だったが、同年7月25日にパラオで連合国軍機による空襲を受けた際には機銃掃射で乗船中の避難民や負傷兵ら4人が死亡した。 1944年(昭和19年)9月から、オプテンノールは横須賀において再び改装工事を施された。このときの工事は、垂直型の船首を上端が鋭く前に突きだしたクリッパー型船首に変更し、擬装用の第二煙突を追加するなど、外観を大きく変更するものであった。11月1日、天応丸は既存の病院船氷川丸にちなみ、第二氷川丸と改名された。引続き横須賀鎮守府所管。改名の理由は、天応丸の発音が「天皇」と同一で不敬であると思われたことのほか、元はオプテンノールであったことを隠蔽する意図があったと推定される。両船(氷川丸、第二氷川丸)は誤認され易く、第二氷川丸側は注意を呼び掛けている。 改装を終えたオプテンノールは、新造病院船として連合国側に通告された。第二氷川丸となってからは、1945年(昭和20年)7月にまで5回の航海をシンガポール方面と日本本土との間で行った。1944年11月6日には、レイテ沖海戦で損傷した戦艦大和の戦死者33名の遺骨を受け入れ、ブルネイを出港した。この間、1945年2月にシンガポール沖でイギリス軍の敷設した機雷に接触し、修理に2週間を要する損害を受けた。 オプテンノールの本来の任務は、天応丸、第二氷川丸時代を通じて、前線からの傷病兵や避難民の治療や救出であった。しかし、これら病院船としての任務の傍ら、兵員や軍需物資の輸送など戦時国際法違反の用途にも使用された。石油輸送に使用するため、真水タンクの一部は石油タンクに改装されていたと見られる。 1945年7月下旬以降、オプテンノールは舞鶴港に係留され8月15日の終戦の日を迎えた。終戦まで生きのびたオプテンノールだったが、終戦直後の8月19日に、舞鶴港外の沓島近海でキングストン弁を解放したうえ、船体に爆雷を装着して遠隔操作で起爆して自沈させられた。自沈作業は舞鶴鎮守府の隷下にある舞鶴防備隊の掃海部隊により、秘密裏に遂行された。自沈を決定したのは海軍大臣の米内光政であったとも言われる。なお、作業にあたった決死隊24人が船とともに沈んで殉職したとの情報は誤りで、全員が無事に作業を終えている。
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