日本海軍と魚雷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 08:07 UTC 版)
日清戦争での水雷艇による威海衛夜襲の戦果と、日露戦争の日本海海戦夜戦における水雷艇と駆逐艦の活躍により、日本海軍は魚雷の有用性に注目して高性能な魚雷の開発に力を注いだ。 1933年(昭和8年)に日本海軍は酸素魚雷を開発・実用化し、第二次世界大戦において使用していた。レーダーが一般化するまで日本海軍は夜戦を得意としており、水雷戦隊によって敵に大きな損害を与え続けた。アメリカ海軍の重巡洋艦が魚雷発射管を廃止していたのに対し、日本海軍の重巡洋艦は多数の魚雷発射管を装備していたことにも、日本海軍の雷撃戦重視がうかがえる。大戦中に日本軍が使用した酸素魚雷は、米軍の魚雷に比べて炸薬量、射程の点で優位にあった。また航跡がほとんど発生しないので、夜間はもちろん昼間であっても視認が困難であったという。戦後に「long lance(長槍)」と呼ばれた。 高速の航空機からでも投下できる本格的な航空魚雷を世界に先駆けて実現したのは、日本海軍の九一式魚雷だった。この魚雷は2点の特徴をもっていた。 1936年から、木製空中姿勢安定板の「框板」を尾部に装着した(九一式航空魚雷改1)。 1941年から、ローリングを安定制御する角加速度制御安定器を備えた(九一式航空魚雷改2)。この安定器は航空魚雷にとって最大のブレークスルーだった。 これらによって、九一式魚雷は高度 20m、速度 333km/h でも、海底の浅い港湾で魚雷を発射できるようになっただけでなく、波立つ海でも魚雷が発射できるようになった。1941年12月8日の真珠湾攻撃で、第一波の九七式艦上攻撃機40機は、15発以上の九一式魚雷を命中させたと報告している。歴史的に、航空魚雷は巡航ミサイルの前身といえる。 日本海軍の攻撃機では、飛行場など敵の基地の攻撃には大型爆弾を、敵艦隊の攻撃には主に魚雷を利用していた。ミッドウェー海戦では、南雲艦隊の空母が攻撃機に敵基地攻撃用の爆弾を搭載していた途中で敵艦隊を発見し、魚雷に積み替えているところを敵機に襲われて格納庫内の爆弾と魚雷が誘爆した。これによって日本海軍は空母4隻を失い、戦局が逆転するきっかけとなった。なお、この時に命中したのは爆弾だけであり、魚雷の命中は1発もない。 第二次世界大戦末期には、大型魚雷に操縦席を設けて人間が誘導し、敵艦船に搭乗員ごと体当たり攻撃する人間魚雷「回天」という特攻兵器も開発された。イタリアでも人間が搭乗する魚雷が作られたが、こちらは弾頭を目標とする艦の底に設置した後に搭乗者が脱出するという運用法であり、人間魚雷の名前はついていても戦死を前提とする特攻兵器ではない。 なお、試験的に装甲の少ない艦底で爆発するように、凧揚げのように浮きを引っ張り、浮きが敵艦の側面に接触した時に艦底の下で起爆する構造の魚雷も考案された。機関として電気モーターしか使用できず、速度が30ノットに制限され、射程も短かったので、実戦では試験的に使用されただけであったが、戦果はあげている。
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