日本海軍の対応
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アメリカ軍のアッツ島来攻時、日本海軍において北方方面を担任していたのは第五艦隊(司令長官河瀬四郎海軍中将)であり、第五艦隊司令長官は北方部隊指揮官を兼ねていた。当時の北方部隊の軍隊区分は、主隊(北方部隊指揮官河瀬四郎第五艦隊司令長官直率:重巡摩耶、第二十一戦隊〈木曾、多摩〉)、支援部隊(妙高、羽黒)、水雷戦隊(第一水雷戦隊〈司令官森友一海軍少将:阿武隈、第6駆逐隊、第9駆逐隊、第21駆逐隊〉、長波、五月雨、響)、潜水部隊、航空部隊(第二十四航空戦隊司令官、第752航空隊、飛行艇隊)であった。日本本土東方における邀撃作戦に関しては、第四空襲部隊指揮官(第二十四航空戦隊司令官山田道行少将)が聯合空襲部隊指揮官として、厚木海軍航空隊と豊橋海軍航空隊を併せて指揮した。なお米軍のアッツ島来襲後の5月18日をもって第十二航空艦隊(司令長官戸塚道太郎中将)が新編され、軍隊区分上は「第二基地航空隊」となった。 従来、第五艦隊は重巡洋艦「那智」を旗艦としていたが、同艦はアッツ島沖海戦で損傷し内地へ帰投、横須賀海軍工廠で損傷修理とレーダー装備工事をおこなっていた。「那智」は5月11日に横須賀を出発し、北方へ向け移動中であった(5月15日、幌筵着)。那智不在の間、第五艦隊旗艦は軽巡洋艦「多摩」や重巡洋艦「摩耶」が務めた。また第五艦隊隷下の第一水雷戦隊旗艦は軽巡洋艦「阿武隈」であったが、アッツ島来攻時の同艦は舞鶴海軍工廠で修理と整備をおこなっていた。「阿武隈」は急遽出渠し、5月17日に舞鶴を出発、5月20日幌筵島片岡湾に到着した。第五艦隊の主力艦として開戦時より北方で活動していた軽巡洋艦「多摩」も舞鶴海軍工廠で修理と整備をおこなっており、同艦も5月20日に舞鶴を出発、幌筵片岡湾着は22日であった。 日本海軍は北方部隊に複数の伊号潜水艦を配備して、哨戒や索敵任務のほかに、アッツ島やキスカ島への輸送に投入していた。 5月11日、水上機輸送任務のために特設水上機母艦「君川丸」が軽巡洋艦「木曾」、駆逐艦「白雲」「若葉」の護衛のもとアッツ島へ向け幌筵を出撃した。米軍のアッツ島上陸の報告を受けてアッツ行を中止、偵察を試みたが悪天候により水上機を発進できなかった。各艦の幌筵帰投は5月15日であった。 5月12日のアッツ島上陸をうけて、北方部隊指揮官(第五艦隊司令長官)は重巡洋艦「摩耶」に将旗を掲げ、アメリカ艦隊攻撃のため幌筵を出撃した。だが霧で視界が効かず、アメリカ艦隊と交戦することなく引き返した(5月15日、幌筵帰投)。並行して、北方部隊指揮官はアリューシャン方面で輸送任務についていた潜水艦をアッツ島に向かわせた。また連合艦隊は複数の潜水艦を北方部隊に編入した。北方部隊のうち、キスカ輸送を終えた「伊31」と「伊34」は、キスカからアッツ島にむかった。「伊35」は幌筵を出撃し、アッツ島にむかった。5月13日、「伊31」は米戦艦「ペンシルベニア」を雷撃したが命中せず(伊31は魚雷2本命中と報告)、米駆逐艦の爆雷攻撃によって撃沈された。「伊34」(資料によっては伊34のほかに伊35も損傷と記述する)も爆雷攻撃で損傷し、避退した。 アメリカ軍アッツ島上陸の速報により、連合艦隊は内地回航中の戦艦「大和」と空母2隻および巡洋艦部隊から4隻(妙高、羽黒、長波、五月雨)を抽出して北方部隊に増強し、第二十四航空戦隊と第801海軍航空隊(飛行艇6機)も北方部隊に増強した。つづいて内地所在の機動部隊や艦艇を関東地方に移動させ、北方情勢に備えた。連合艦隊は、アッツ島の米軍艦隊が正規空母4 - 5隻からなるものと評価した(実際には護衛空母一隻)。 内地で修理や訓練を行っていた第一航空戦隊(瑞鶴、翔鶴、瑞鳳)、重巡洋艦3隻(最上、熊野、鈴谷)、軽巡洋艦2隻(阿賀野、大淀)、駆逐艦複数隻(新月、浜風、嵐、雪風、秋雲、夕雲、風雲)等からなる艦隊が横須賀に集結した。北方で行動中と推定された米軍機動部隊に決戦を挑むための処置である。 5月17日、連合艦隊司令長官古賀峯一大将及び海軍甲事件で死亡した山本五十六大将の遺骨を乗せた大和型戦艦「武蔵」と金剛型戦艦2隻(第三戦隊司令官栗田健男中将:金剛、榛名)、空母「飛鷹」(第二航空戦隊)、第八戦隊(利根、筑摩)、駆逐艦5隻はトラック泊地を出発、東京湾にむかった。 5月18日、大本営はアッツ島増援の中止を内定し、連合艦隊司令部は洋上でこの決定を知った。 5月22日、連合艦隊司令長官古賀峯一大将直率の艦隊は東京湾に到着し、「武蔵」(連合艦隊旗艦)は木更津沖に投錨した。駆逐艦2隻(夕雲、秋雲)は山本元帥の遺骨を東京へ送った。また連合艦隊参謀長は宇垣纏中将から福留繁中将に交代した。各艦隊司令部が集合して検討した結果、機動部隊の東京湾出撃は29日を予定とし、北方全般の情勢をみて出撃するか否かの最終判断をくだすことになった。 幌筵では20日までに北方部隊(第五艦隊所属艦および臨時編入艦)の各艦艇と、陸軍の増援部隊を乗せた輸送船団が集結していた。北方部隊は水上艦船・航空部隊・潜水部隊でアッツ島方面敵艦隊に奇襲をしかけると共に、第1駆逐隊(沼風、神風)によるアッツ島緊急輸送を計画していた。この時点での北方部隊は、重巡洋艦4隻(那智、摩耶、妙高、羽黒)、軽巡洋艦3隻(木曾、多摩、阿武隈)、駆逐艦(響、五月雨、長波、第9駆逐隊〈朝雲、白雲、薄雲〉、第21駆逐隊〈若葉、初春〉)、水上機母艦「君川丸」、潜水艦部隊等によって編成されていた。 5月21日、大本営海軍部は大海指第247号により、アッツ島守備隊の収容に努力するよう第五艦隊に対し指示した。だが第五艦隊の出撃は度々延期され、天皇は第五艦隊の出撃取止め理由を問いただすことになった。 北方部隊に編入された第二十四航空戦隊の第一部隊(第752航空隊)陸上攻撃機21機は、5月13日幌筵島に進出を完了したが、連日の悪天候に悩まされた。占守型海防艦(国後、石垣、八丈)が陸攻隊の救難、気象観測、誘導のため配置された。5月23日、天候が回復する。第752航空隊の陸攻19機(指揮官野中五郎大尉)はアッツ島方面に対するはじめての航空攻撃を敢行し、駆逐艦1隻撃沈等の戦果を報告した(未帰還機1)。翌24日、野中隊長指揮下の陸攻17機はアッツ島に到達したが、霧のため目標を視認できなかった。邀撃してきたP-38双発戦闘機と交戦してP-38撃墜8(不確実2)を報じたが陸攻3機(ほかに着陸時大破1)をうしなった。翌日の使用可能機数は、陸攻30と零戦12と報告している。25日以降ふたたび天候が悪化し、その後は航空攻撃の機会を得られなかった。キスカ島の海軍守備隊(第五十一根拠地隊、司令官秋山勝三海軍少将)は、アッツ島守備隊激励のため水上機を1回だけ派遣したという。 25日、第一水雷戦隊を中心とする艦隊が敵艦隊への攻撃及び緊急輸送のため、アッツ島へ向け幌筵を出撃した。編成は以下の通り。 軽巡洋艦「木曾」「阿武隈」 駆逐艦「長波」「若葉」「初霜」「朝雲」「白雲」「薄雲」「沼風」「神風」 第五艦隊は米艦隊の包囲網を突破、駆逐艦2隻(神風、沼風)は5月28日(陸軍部への通告では27日)にアッツ島へ到着し補給を行う予定であった。27日、アッツ島沖で荒天に遭遇し、一時待機となった。 5月28日、第五艦隊参謀江本少佐(アッツ島)は「漸次急迫シツツアリ 本日ノ輸送ハ是非実行サレ度」と電報したが、第一水雷戦隊は既に作戦中止の意向であった。旧式駆逐艦の上に大量の物件を搭載していた第1駆逐隊(神風、沼風)は悪天候の中で航行困難となり、命令により幌筵に帰投した。5月29日朝、連合艦隊は機動部隊の出撃を取りやめた同じくアッツ島沖の第一水雷戦隊も30日0230「行動ヲ中止シ幌筵ニ帰投ス」を発令し、引き返した。連合艦隊は第五艦隊に「潜水艦ヲ以テ熱田島残留者(報告者ノミニテモ可)収容ノ手段ヲ講ゼラレタシ」と下令した。この命令により伊号第24潜水艦がアッツ島に向かったが収容に失敗し、同艦は6月11日に撃沈された。江本少佐以下4名もアッツ島で死亡した(前述)。
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