名声の高まり
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「フレデリック・ディーリアス」の記事における「名声の高まり」の解説
1907年までには、ドイツ各地で作品が取り上げられたことによって、ディーリアスはビーチャムの言葉を借りるならば「年が進むにつれてかさが増す繁栄の波の上に、危なげなく浮かんでいた。」ヘンリー・ウッドは同年に、「ピアノ協奏曲」の改訂版の初演を行っている。また、この年にはフリッツ・カッシーラーがロンドンで指揮台に登っており、ある演奏会ではビーチャムのニュー・シンフォニー・オーケストラを指揮して「アパラチア」を披露している。この時までディーリアス作品を耳にしたことがなかったビーチャムだったが、これに驚愕してその後の生涯にわたってディーリアスの音楽に心酔することになった。数週間後の1908年1月11日、リヴァプールにおいてビーチャムは管弦楽のための夜想曲「パリ: 大都会の歌」のイギリス初演を行った。その年の暮れには。ビーチャムは「ブリッグの定期市」をロンドンの聴衆に紹介し、フェルナンデス・アルボスが「生命の踊り」を取り上げた。 1909年、ビーチャムは4人のソリストと2群の合唱、大オーケストラのために書かれた、ディーリアスの演奏会楽曲でも最大規模で最も野心的な「人生のミサ」を、初めて全曲演奏した。この曲はリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはこう語った」と同じニーチェの作品に基づいていたが、シュトラウスの作品を完全な失敗作とみなしていたディーリアスは、彼の作品とは距離を置いていた。一方のシュトラウスもエルガーを称賛しながらディーリアスを認めようとはせず、ディーリアスに対し夜想曲「パリ」を指揮したくないと伝えていた。「私には交響的発展が乏しすぎるように見受けられ、さらにシャルパンティエの真似事のように思われる。」 20世紀初頭に作曲されたディーリアスの楽曲には、彼の作品の中でも最も人気を獲得した作品が含まれる。「ブリッグの定期市」(1907年)、「夏の庭で」(1908年、1911年改定)、「川面の夏の夜」(1911年)、「春初めてのカッコウの声を聴いて」(1912年)などである。これらに関してマクヴェイはこう述べている。「これらの見事な牧歌を聴けばほとんどの場合、作曲者がドイツの血筋を持ちフランスに居住した人物であるにもかかわらず、『イングランド』という言葉が思い浮かぶ。」1910年に、ビーチャムはロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスでオペラシーズンを催した。彼は自らの一家の巨額の資金を背景に、採算を度外視して集客の見込みが薄い演目もいくつか取り上げた。「村のロメオとジュリエット」などである。演奏会評はおおむね穏健なものであったが、タイムズ紙は曲の管弦楽的側面を称賛しつつこう批評した。「ディーリアス氏には、声楽のために劇的な曲を書く感覚が極めて乏しいようである。」曲には非常に美しい瞬間があるものの、楽劇としては効果的に書かれていないという点については、他の批評家たちも賛同している。
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名声の高まり
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戦争が終わっても英語圏の論壇でつねに注目される批評家としての活動はつづき、『キリスト教社会の理念』や『文化の定義のための覚書』などを相次いで刊行する。このころ妻ヴィヴィアンとの距離は決定的なものとなり、ロンドンで友人のジョン・ヘイウォードとの共同生活をはじめた。1947年には、1933年に離婚していた元妻ヴィヴィアンが入院先の病院にて急死、さらに兄も死亡した衝撃で一時詩作は停滞したが、同じ年にハーバード大学から名誉学位授与、翌1948年には英国王ジョージ6世からメリット勲位、さらにノーベル文学賞を授与されている。 以後は世界的知識人・文人としてヨーロッパとアメリカを往復し各国で講演・講義を行いながら、数多くの評論・詩劇を発表しつづける。私生活では、エリオットの秘書をつとめていたヴァレリー・フレッチャーと1957年に結婚。1965年に76歳で亡くなるまで出版社の重役でもあった。私信などの文書類を2020年まで一切公開しないように妻ヴァレリーに遺言を残した。亡骸は遠い祖先の村だったサマセット州イースト・コーカーの聖マイケル教会に葬られている。 1984年には、マイケル・ヘイスティングズによるエリオットとヴィヴィアンの生活を描いた戯曲「トム&ヴィヴ」が書かれて公演され、1994年には邦題『愛しすぎて/詩人の妻』として映画化されている。
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名声の高まり
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「ウィリアム・バトラー・イェイツ」の記事における「名声の高まり」の解説
事件で未亡人となったモード・ゴンへの再度の求婚と拒絶を経て、1917年10月、52歳のイェイツは友人の遠戚にあたる25歳の娘ジョージー・ハイド・リーズ(Georgie Hyde-Lees, 1892年 - 1968年)と結婚した。彼女はイェイツの創作活動を深く理解して詩人の生活を安定させたが、同時に霊媒のように脳裏に浮かぶ言葉をつぎつぎに口にする能力を示したため、イェイツはこれを「自動筆記」と呼んで自らの創作活動に取り入れることになった。イェイツは妻を霊媒とする問答をもとに膨大な草稿をつくり、それまでの神秘思想への傾倒の集大成となる『ヴィジョン』(A Vision)として発表している(1937年)。 アイルランドではイースター蜂起の鎮圧後も反イギリス感情がくすぶり、1919年1月にはシン・フェイン党がアイルランド議会の樹立を宣言、武力抗争が激しくなっていた。1921年に英愛条約が結ばれてアイルランド自由国は念願の独立を果たすが、以後もこの条約に不満をもつ過激派と自由国政府とのあいだに内戦が続いた。 動揺がつづく建国間もない故郷からの懇請を受け、すでにロンドンで確固たる文名を築いていたイェイツは1922年12月、アイルランド上院議員に任命される。 1923年にはノーベル文学賞を受賞する。社会的な名声に包まれるなか書き継がれた詩集『塔』(The Tower, 1928年)は後期イェイツの頂点の一つで、「ビザンティウムへの船出(Sailing to Byzantium)や「レダと白鳥(Leda and the Swan)など数々の佳品が含まれている。
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名声の高まり
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「ベリル・マクバーニー」の記事における「名声の高まり」の解説
トランキリティ女学校を出た後、マクバーニーは教師となり、校内でのコンサートや芝居、オペレッタなどにまつわる課外活動に積極的に関わった。機会をとらえては踊り、また同時に、ピアノと発声を鍛え上げた。 Mausica教員養成学校で学んだマクバーニーは、まずポートオブスペインで教職に就いた。またトリニダードの民俗学者アンドリュー・カー(Andrew Carr)とともに国内を巡った後には、民俗舞踊を仕事にすることに決めた。トリニダード・トバゴで失われつつあった数多の旋律や民俗舞踊がマクバーニーに救い出され、彼女の踊りの中に生かされた。1938年、彼女はニューヨークのコロンビア大学に入学し、モダンダンスの開拓者であるマーサ・グレアムのもとでダンスを学んだ。さらに、同じくアメリカのモダンダンサーであり振付家のチャールズ・ワイドマン(Charles Weidman)、アフリカ系アメリカ人の振付家キャサリン・ダナム(Katherine Dunham)とも活動をともにし、エミール・ジャック=ダルクローズの弟子であるエリサ・フィンドレー(Elisa Findlay)のもとでリトミックも学んだ。またニュー・ダンス・グループ(New Dance Group)でトリニダードのダンスを教えた。 ベリル・マクバーニーは伝統的なカリブのダンスを広めた最初の人物である。1938年にキャサリン・ダナムがシカゴからNYにやって来た時、マクバーニーは彼女に西インド諸島のリズムやダンスを個人指導し、トリニダードのシャンゴ(Shango)信仰の儀礼で歌われる歌や、死者を悼む踊りであるボンゴ(Bongo)、棒を使って二人で闘う様子を模した踊りカリンダ(Kalinda)などを教えている。 1940年、マクバーニーは一時的にトリニダードに帰国し、ポートオブスペインのエンパイア劇場で『熱帯を巡る旅(A Trip Through the Tropics)』を上演した。カリブやブラジルの踊りを、ニューヨークのモダンダンスと組み合わせ、ヴァグナーや ベートーベン、バッハの音楽に乗せ、大勢の観客の前で踊った。チケットは完売であった。 1941年にNYに戻ると、マクバーニーは1945年までそこで過ごした。この時期、彼女は西インド諸島のダンスを教えるクラスを開講するとともに、楽しく学ぶことのできる資料をまとめ、レクチャーやデモンストレーション、公演などで用い始めた。 また1943年には、トリニダード出身の歌手サム・マニング(Sam Manning)と共演し、唯一世に知られているカリプソのサウンディーズ(レストランやバーに置かれた映像付きジュークボックス用の短編映画)『石切り場の道(Quarry Road)』を製作した。 1942年にパール・プリマス(Pearl Primus)が学んでいたニュー・ダンス・グループでもマクバーニーは人気講師となった。キャサリン・ダナムと同じくプリマスもマクバーニーから西インド諸島のダンスを習い、このグループの一員となってNYの様々な舞台に出演した。 マクバーニーは、1941年、「ラ・ベル・ロゼット(La Belle Rosette)」という芸名で舞台に立つようになった。当時は若き劇場関係者で、後に慈善活動家となるルイーズ・クレイン(Louise Crane)が、近代美術館(MOMA)の「カフェ・コンサート」での上演を依頼した。詩人のヒルダ・ドゥーリトル(Hilda Doolittle)がこの上演について非常に好意的な評を書いている。 これに続いて「ラ・ベル・ロゼット」は、ドリス・ハンフリーやマーサ・グレアムとともにブルックリン・アカデミー・オヴ・ミュージックや92nd Street Yにも出演した。1942年6月、マクバーニーはウィンター・ガーデン劇場でヒットしたブロードウェイ・ミュージカル・レヴュー『サンズ・オ・ファン(Son O'Fun)』でカルメン・ミランダの代役を務めた。NYの『ピープルズ・ヴォイス』に出た評によれば、「才能あるトリニダード人の演者であるベル・ロゼットは、ヒット中の舞台『サンズ・オ・ファン』でカルメン・ミランダの代役を務めることになっているが、日曜の晩、ユダヤ青年協会に集まった熱狂的な観客に対して、ブロードウェイ用語でいうところの“素質”を持っていることを十分に示した」。 1942年から1945年の間、マクバーニーはハンター・カレッジ、ヘンリー・ストリート・セトルメント・プレイハウス、マディソン・スクエア・ガーデンズ 、 ヴィレッジ・ゲイト 、ニューヨーク・シティ・カレッジなどで舞台に立った。 この時期、彼女は自分の活動に活かすため、コロンビア大学へさらに2学期通い、演劇、絵画、音楽、その他の芸術のコースで学んだ。
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