名声の模索
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「ベドルジハ・スメタナ」の記事における「名声の模索」の解説
1861年、チェコオペラの本拠地として、仮劇場の建設がアナウンスされた。スメタナは、これをオペラを書く良い機会であり、ミハイル・グリンカのオペラにおけるロシアの生活の描写と同じように、ステージオペラにチェコの国民性を反映するものにすると考えた。彼は、仮劇場の指揮者の地位を望んでいたが、結局そのポストには、ヤン・ネポムク・マイールが就くことになった。これは、明らかに、この劇場のプロジェクト内の保守派が、スメタナをリストやワーグナーのような前衛的な作曲達のとりことなっている"危険なモダニスト"であるとみなしたためであった。そして、スメタナは、オペラコンテストに力を注ぐようになった。このコンテストは、ヤン・フォン・ハラハ伯爵によって開催されており、チェコ文化を下敷きにした歴史オペラと喜劇のそれぞれの最優秀作品に選ばれると、600ガルデンの賞金が授与されるものであった。作品を基礎づけるような有用なモデルは無かった(当時は、チェコオペラはジャンルとしてはほとんど存在していなかった)が、スメタナは自身のスタイルを作り上げた。スメタナは、1848年のカレル橋のバリケードで同志であった、カレル・サビナを劇作家として起用し、1862年2月に台本を受け取っている。その台本の内容は、13世紀、オットー2世によるボヘミア侵攻を題材としたものだった。1863年4月、そのオペラを『ボヘミアのブランデンブルク人』と題して、スコアを出版した。 彼のキャリアの中で、この時期、スメタナのチェコ語による指示は不十分であった。チェコにおいて、彼の世代は、ドイツ語による教育を受けており、彼はおそらく、母国語で彼自身を表現するのが困難であった。この言語の欠点を克服するために、スメタナはチェコ語文法の勉強を始め、毎日、必ずチェコ語を書き、チェコ語で話すようにした。スウェーデンからの帰国後すぐにスメタナは民族主義的なフラホル合唱協会のコーラスマスターとなった。また、彼のチェコ語の流暢さが徐々に上達し、彼は社会のための愛国的なコーラスを作曲した。この『3人の騎手』と『裏切者』は、1863年初めに上演された。同年3月、スメタナは、チェコの芸術協会であるUmělecká Besedaの音楽部門のトップに選ばれた。1864年までに、スメタナはチェコ語を流暢に話すことができるようになり、主要なチェコ語の新聞、Národní listyの音楽評論家になるまでになっていた。その間、ベッティーナとの間に娘、ボジェナが生まれている。 1864年4月23日、スメタナはウィリアム・シェイクスピアの生誕300周年記念コンサートで、ベルリオーズの合唱交響曲『ロメオとジュリエット』を指揮している。この時、プログラムに自身の楽曲『シェイクスピア祭のための祝典行進曲』を追加している。同年、スメタナはプラハ音楽院の指導者に応募するも落選。スメタナは、この職をとても期待していた。彼は、スウェーデンの友人への手紙で、「私の友人たちは、その地位はその地位は私のために特別に作られたのだろうといって私を説得しようとしています」と書いている。彼の期待は、彼が急進的と考えられていたリスト派であるとされ、打ち砕かれた。そのポストには、保守的な愛国者、ヨゼフ・クレイチーが就任した。 スメタナがハラハのオペラのコンテストの勝者であると発表されるまで約3年の月日が経過した。その前の1866年1月5日、『ボヘミアのブランデンブルク人』を、仮劇場で熱烈な歓迎の下、上演した。この上演について、仮劇場の指揮者であるマイールは強く反対し、この演目のリハーサルや指揮を拒否した。結局、このオペラは作曲家であるスメタナ自身の指揮の下で上演された。スメタナは、「私はステージに9回呼ばれた」と書いている。チケットは完売し、評論家たちはこぞって称賛したと記録に残っている。しかしながら、このオペラは、徐々に上演されなくなった。音楽史家のローザ・ニューマーチは、『ボヘミアのブランデンブルク人』は長期にわたって上演されるような作品ではなかったものの、スメタナのオペラの芸術性の起源全てを含む作品であったと考えている。
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